御朱印 – 自我を消す行 –
午前十時からということにしていましたが、九時過ぎには、大勢並んでくださっていましたので、九時半から書き始めました。
今回は、ホトカミの吉田亮さんにもお手伝いいただきました。
ホトカミというのは、2017年4月に公開した神社お寺の投稿サイトであります。
吉田さんとのご縁で、この御朱印を始めたのでした。
吉田さんのお話を聞いて、それでは自分もやってみようと思ったのでした。
それがご縁だったのです。
二年前の五月に始めて行ったのでした。
これで三回目となります。
今回も五十名の方々に御朱印を書いて差し上げました。
これがその御朱印をお求めになる方の目の前で書いて差し上げるようにしたのでした。
紙に朱印に書くものなどはあらかじめ書いておくと楽なのですが、それでは味気ないものです。
たとえばお料理でも目の前で作ってくださるというのは、それを見ているだけでも嬉しくなります。
あらかじめ作られたものを出されるよりも、目の前で作ってくれるのはありがたいと思うものです。
そんな感覚で、おひとりお一人の目の前で書いて差し上げることにしました。
禅語を四種類とそれからお地蔵さまの絵を描いて無事と書いたものとで、五種類を用意してその場で選んでいただいて書くのです。
思えば私もはじめて目黒絶海老師が書を書かれるところを拝見したり、小池心叟老師が書を書かれるのを間近で拝見して感動したものでした。
足立大進老師のおそばでも老師が書を書かれるのをたくさん拝見してきました。
その息づかいが伝わってくるのです。
しかしながら、初対面の方の前で字を書くというのははじめは緊張するものです。
三回目で慣れてきているものの、まだはじめは意識をしてしまいます。
とりわけ今回はお地蔵さまを書くようにしますと、なんと七割くらいの方がお地蔵さまの御朱印をお求めになりました。
お地蔵さまといっても簡単な絵なのですが、それでも筆数が多いので禅語よりも時間がかかります。
それにお地蔵さまのお顔を描くにはかなり心を集中させます。
五月三日にもたくさんのお地蔵さまを書いて、そのあと手の指や手首、それに肩に凝りが残ったのを感じました。
少々の凝りくらいなら、すぐに体操してほぐすことができますが、これはよくないと思って反省しました。
どうして凝りになったのかを反省してみると、やはり指と手首に力みがあることに気がつきました。
とくに指に力が入るというのは、これは余計な力でしかありません。
今回はこの指の力を抜こうと意識しました。
力を抜くというのは抜こうとして抜けるものではありませんので、できるだけ筆を持ったら、書こうという意識を消して、足の裏が畳についているところに意識を向けたのでした。
すると指や手首の力が抜けます。
そしてその紙にお地蔵さまのお顔が現れているとおもって、そのお顔をなぞるように筆を沿わせました。
そうするとかなり指や手首に力が抜けることが分かりました。
こういうときにも大事なのはやはり足の裏だと実感したのでした。
お求めになる方も、じっと書く様子を見入ってくださっています。
その相手を意識してしまうと緊張が入ってしまい、筆がぶれたりします。
相手がそこにいることはこちらの意識から完全に消すようにします。
誰もいない山奥で一人静かに筆を走らす感じになるのです。
そうして書き終えると、お互いに顔を見合わせて笑顔になります。
お互いに笑顔になる、お互いに微笑む、これは百万言の説法にも勝ると思いました。
吉田さんもその時の感想をnoteに書いてくださっていました。
「「毎朝、Youtubで管長日記を聞いています!」
「最近、こんなことがありました。」など、お話しされる方もいれば、
横田老師の筆の動きをじっと見つめ、書き終わると同時に笑顔で感謝をお伝えされる方など、同じ空間をご一緒できて、感動でした。
きっと一生に一度のような宝物のような時間だったのではと思います。」
と書いてくれています。
地元の山之内の方や、遠く九州からお見えになった方など実に様々でありました。
会話ができるのも楽しみでありました。
終わったあとにお手伝いいただいた吉田さんとお昼をご一緒して、いろんな話をして過ごしました。
吉田さんから聞かれたことが興味深いことでした。
吉田さんはお仕事柄、いろんな神社仏閣を訪ねていらっしゃいます。
多くの神職の方やお坊さんにも出会っています。
そしていろんな宗教の行も体験されています。
熊野の山に登ってみたり、高野山に行かれたり、真言の護摩行にお参りされたりしています。
あるいは厳しい行の場に臨まれたりもしています。
そして私のイス坐禅や寝る禅にも参加してくださっています。
それぞれその形だけみれば全く異なるような行であります。
雄大な大自然の中を歩くものもあれば、燃える火に向かう行もあれば、滝や水をかぶる行もあり、私のような会議室のイスに坐るだけのものや、畳に寝転がるだけのものもあります。
異なるようにみえて、吉田さんには何か共通するものをお感じなのだと思います。
そのいろんな宗教に共通するものは何だろうかという話題になりました。
私は、それは諸法無我でしょうと申し上げました。
どの行であろうと、かぎりなく自我が小さくなってゆきます。
自我意識が小さくなっていく過程を、人は清められると感じるのだと思います。
自我意識が限り無く薄らいで、大自然とか神とか、大日如来とか、大いなる御仏、仏心とひとつに融合していくのです。
そこが共通しているのだと思っています。
ところがそれぞれの宗教がその体験をもとにして、教義を立てて組織を作っていくといろんな違いが鮮明になってくるのです。
もとになるもの、通じるものは、自我意識が消えていって、大自然や神、仏、仏心と融合していく体験だと思います。
そんなことをお話させてもらっていました。
御朱印を書くときもそうなのです、
人のために書いているように見えますが、私が限り無く自我意識を消していく行をさせてもらっているのです。
そうすると余計な力が抜けてお地蔵さまが書けるのです。
書いてあげているのだとか、上手に書こうという意識がはたらくと凝りになったりうまく書けません。
自我意識はやはり思考が大きく関わりますので、頭のはたらきを限り無く止めてしまうことが大事です。
そのために、足の裏に意識をもっていくのが一番やりやすいのです。
大自然の中を歩くと自然と足に意識が降りていって思考が消えてゆきますし、炎に向き合うときも、真剣な行をするときには思考が消えてゆくのです。
そこに神や仏があらわになるという世界なのです。
横田南嶺