夢のごとく幻のごとく
地水火風の四つの元素を言います。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「物質を作り上げる地・水・火・風の4元素のこと。
それぞれの本質と作用として、<地>には固さと保持、<水>には湿潤と収集、<火>には熱さと熟成、<風>には動きと生長が充(あ)てられる。」
と説かれています。
お互いの肉体にあてはめてみると、骨や筋肉などが地の元素です。
血液や体液などの水分は、水の元素です。
体にある熱は、火の元素です。
呼吸などの動きは、風の元素といえます。
この四大が発展して空を加えて五大が説かれるようになりました。
その五大がもとになって五輪塔などがあるのです。
臨済禅師は、この四大について独自の解釈をなされています。
岩波文庫にある『臨済録』の入矢義高先生の現代語訳を引用します。
「問い、「その四種の変化の形なき世界とはどういうものですか。」
師は言った、「君たちの一念の疑いは、〔四大のうちの〕地に妨げられて生まれたもの。
君たちの一念の愛欲は、水に浸みこまれて生まれたもの。
君たちの一念の瞋は、火に焼かれて生まれたもの。
君たちの一念の喜びは、風に吹き上げられて生まれたものだ。」
というのです。
お互いの迷いがどのように形成されているかというところに注目されています。
疑い、愛欲、嗔、喜び、これら四つの心のはたらきは迷いであります。
もっとも良い意味での喜びもありますが、ここでは単に自分の思うままにことが運んで喜ぶという程度であると察します。
この四つの迷いも皆自我がもとになっています。
自分中心なものの見方がもとになっていて、疑いが起こったり、愛欲や嗔、喜びが起きるのです。
自分に都合のいいものには愛欲を起こして欲しがります。
自分にとって不都合なものには嗔を生み出します。
自分の思うようになると喜ぶのです。
それから自分中心の物差しがもとになって、師匠や真理について疑いを起こすのです。
仏に対する疑いや法に対する疑い、そして僧に対する疑いです。
山田無文老師は禅文化研究所発行の『臨済録』の中で、
「お互いの心の中の疑いがこり固まるならば、それは地に支配されておるのだ。
疑という字とにすいをつけると凝るになり、石をつけると礙げるになり、やまいだれをつけると愚癡の癡になる。
何かの問題に頭をつっ込んで、それにとりこになることが、心が地に支配されるというのである。
お互いが感情におぼれて堕落するならば、これは水に支配されておるのである。
腹を立ててカッカッと怒るのは火に支配されておるのである。
楽しいことがあれば、心がフワフワと迷うが、それは風に支配されておるのだ。」と分かりやすく説いてくださっています。
これらの四つの迷いは仏教で説かれている五蓋に通じる部分も多いと感じます。
五蓋は、貪欲という貪り欲望、瞋恚という嗔り、惛眠という身心が重苦しい状態と心の眠気や萎縮、掉悔という心のざわつき、それに疑といううたがいです。
お互いの迷いも固定した実体をもっているのではありません。
なにか迷いの固まりがあって、それに私たちが押さえつけられているのではないのです。
それらは四つの元素の集合体にしか過ぎないのです。
そう見ることができれば、どうなるのか臨済禅師のお説法を見てみましょう。
「もしこのように会得できたら、外境に振りまわされず、どこででもこちらが外境を使いこなし、東に現れ出て西に沈み、南に現れ出て北に沈み、中央に現れ出て端に沈み、端に現れ出て中央に沈み、また水上を地上のように歩き、地上を水上のように歩けるようになる。」
というように自由自在に生きていくことができるというのです。
外の世界に振りまわされないように、外の世界を遮断してしまうことではありません。
その世界を自由に使いこなしていけるというのです。
はじめて『臨済録』を読んだときには、このような考えに心惹かれました。
我々は外の世界に振りまわされて迷い苦しんでいます。
その外の世界を自由に使いこなすとはどういうことだろうかと思ったものです。
どうしてそういうことができるようになるかといえば、臨済禅師は、
「なぜそうなるかといえば、四大は夢や幻のように無実体だと体得しているからだ。
諸君、今こうして君たちが説法を聰いているのは、君たちの四大がそうしているのではない。
〔君たちその人が〕自らの四大を使いこなしているのだ。もしこのように見究め得たならば、死ぬも生きるも自在である。」
と説かれています。
無文老師は「この客観世界を構成しておる地水火風の四大というものは夢のごとく幻のごとく実在しないものであると、はっきりと分かったからである。
この世界はすべて因縁によってできておる。
因と縁とが離れるならば、すペてのものはなくなるのである。
お互いの体も地水火風が集まって、父母の縁によってこの世に出て来たのである。
それは刻々と変化する、夢幻のようなもので、実在しないものである。」と説かれています。
更に大事なことは、その四つの元素を使いこなしている者、いまこの説法を聴いている者を自覚することなのです。
無文老師は「だから、今そこでこの臨済の話を聞いておるのも、お互いの肉体が聴いておるのではない。何もない、形のない姿のない、色のないやつが聴いておるのである。
そいつがこの四大を、この体を動かし、使っていくのである。
その体に使われることのないお方こそ、本当の自由というものである。生きる死ぬるも、去住自由じや。」
と説かれているのであります。
お互い自分だと思い込んでいるものは、四つの元素の習合に過ぎない、夢のごとく幻のごとくだと見て、とらわれることなく自由自在に生きることを臨済禅師は説いてくださっています。
横田南嶺