あたふたと
という言葉があります。
「立派な師を訪ね歩いて教えを請うがよい。」というところは、原文では、「且く知識を訪尋せんことを要す」となっています。
知識という言葉は、「道理・原理などを理解すること」や「事物について知っている内容。」という意味の他に、仏教では、「すぐれた僧のこと。高僧」を表します。
ボロ衣と訳されているのは、原文では「毳」という字であります。
「毳」という字は見慣れませんが、毛という字を三つ合わせた文字です。
「毳」という字を漢和辞典で調べてみると、「にこげ」という意味が書かれています。
「にこげ」は何かと調べてみると、「鳥獣の柔らかな毛」という意味であります。
それから「毳衣」というと、「古代、大夫の官服であった毛織りの衣。」「匈奴が用いた毛織りの服。」であり、その他に僧侶の服という意味もあります。
僧侶の服には、糞掃衣、毳衣、納衣というものがあります。
糞掃衣は、「ぼろきれの衣。塵芥の中に捨てられてあったぼろきれをつづり合わせてつくった衣。」のことです。
「衲衣」の「衲」という字には、つくろうという意味があります。
「衲衣」で僧侶の服のことをいい、禅僧のことも表します。
『臨済録』は、おもに当時の行脚僧に対して説かれた教えですから、臨済禅師の頃には、僧になって一口の食事をいただいて、ボロの衣を繕って暮らせばいいという者もいたのではないかと察します。
そんなことよりも、すぐれた師を求めて行けと説かれたのでした。
ただ『臨済録』には、外に向かって求めまわるなと繰り返し説かれているのも事実であります。
こんな教えもあります。
岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。
「諸君、時のたつのは惜しい。それだのに、君たちはわき道にそれてせかせかと、それ禅だ、それ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、〔いわゆる〕善知識を求めて臆測を加えようとする。
間違ってはいけないぞ、諸君。君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。このうえ何を求めようというのだ。自らの光を外へ照らし向けてみよ。」
というのであります。
「わき道にそれてせかせかと、」という言葉の原文は、「傍家波波地」となっています。
これは岩波文庫の旧版の朝比奈宗源老師の訳では、「外に向かってせかせかと」になっています。
これが最近では、「傍家」は、一軒一軒軒なみにという意味だとなされています。
波波地は、奔走するさまを言います。
小川隆先生は、「のきなみにあたふたと」と訳されました。
「自らの光を外へ照らし向けてみよ」というところは原文では「自ら返照し看よ」となっています。
「回光返照」ともいって、これは「自らの内なる知慧の光で自らを照明すること」であります。
『禅学大辞典』には、
「外に向かう心を翻して内なる自己を反省し本来の面目を明らめること、道を他に求めることなく、自己の本性を照見すること」と解説されています。
山田無文老師は、「じっと坐禅をして、自分の意識の中を深く掘り下げてみよ。
深く自己反省をしてみよ、そこに諸仏の本源というものがあるのだ。」と提唱されています。
そのあとに、古人云く、「演若達多頭(こうべ)を失却す、求心歇(や)む処即ち無事」と。」と続きます。
演若達多の話は『首楞厳経』にあります。
多少脚色がありますが、山田無文老師の『臨済録』にある提唱を参考にしましょう。
次のように説かれています。
「室羅という街に演若達多という美貌の青年がおった。毎朝、鏡を見て化粧をしておったが、ある日、鏡を見たところ、頭がない。
きつとタべ寝ておる間に頭を取られたに違いない、と街の中ㇸ出て、私の頭をご存じありませんか、そこらに落ちていはしませんでしたか、と言うて頭を尋ねて歩いた。
そう言うておるのが、おまえさんの頭ではないか。
おまえさん、頭があるから尋ねておれるんではないか、と言ってみなに笑われた。
そう言われて、頭に手をやってみたら、頭がちゃんとあった。」
というのです。
笑い話のような話です。
これが自心是れ仏であるという教えをよく表しています。
仏とは何だろうかと探している、その心が仏なのであります。
そのことが自分自身の身においてはっきりと自覚されて、外に求める必要がなくなるのが「無事」なのです。
無文老師も「みんなもそうだ。心の中にちゃんと仏を持ちながら、その仏を放って置いて、外に向かって仏を求め神を求めているのだ。
外に向かって求める心がなくなった時に、初めて無事是れ貴人だ。もう何も求めるものはない。天下に求めるものは何もないというところが、臨済の境地である。」と説いてくださっています。
ですからよそに求め回ることをせずに、ただ「平常(あたりまえ、ありのまま)」でいればよいのだと説かれたのです。
外に求めることをやめて自分自身に立ち返ってみることを回光返照といったのであります。
小川隆先生は『臨済録のことば』 (講談社学術文庫)の中で、
「確かにひとりの父とひとりの母から生まれたかけがえの無い活き身の自己、その外に、「仏」や「祖」を求める必要は無い」と説かれています。
坐禅はまさにあたふたと外に求める心をやめて、この身このまままるごと仏であることを自覚して坐ることなのであります。
横田南嶺