念念無常
第一章のはじめに、『臨済録』の言葉が引用されています。
そこには現代語訳が書かれています。
こんな文章です。
「諸君、君たちの幻のような連れにとらわれてはならぬ。
〔そんなものは〕遅かれ早かれ無常(死)に帰するものである。
君たちはこの世でいったい何を求めて解脱だとするのか。
一口の飯にありつき、ボロ衣のつくろいをして時を過ごすよりも、立派な師を訪ね歩いて教えを請うがよい。
グズグズと安楽をむさぼっていてはならぬ。
光陰は過ぎやすく、一念一念が無常(死)への歩みである。」
と書かれています。
そのあとに原文の漢文も記されています。
「諸君、君たちの幻のような連れにとらわれてはならぬ」と訳されていますが、これがなかなか難しいところです。
原文では、「道流、你,箇の夢幻の伴子を認著すること莫かれ。」となっています。
「道流」は「共に道を学ぶものたち」という意味です。
ですから、「諸君」という呼びかけになっています。
問題が「夢幻の伴子」であります。
「夢幻」はゆめまぼろしです。
「伴子」とは「伴う」という字に、子供の「子」を書いています。
『文字からはじめる禅』 では、
「君たちの幻のような連れ」となっています。
これは岩波文庫の『臨済録』にある訳文と同じであります。
岩波文庫には、註釈で、「夢か幻のような連れあい。空蝉の肉体」と書かれています。
江戸時代の無著道忠禅師の註釈には、はっきりと「形骸」をいうのだと書かれています。
認著は、認めるという字に著作などというときに使う、「著」であります。
『文字からはじめる禅』では、「君たちの幻のような連れにとらわれてはならぬ。」となっています。
岩波文庫では「君たちの幻のような連れを実在と思ってはならぬ」と訳されています。
そのあと「遲晚中間、便ち無常に帰す」と続きます。
遲晚は二つの文字のどちらも、「おそい」という意味で、同義複詞といいます。
そのあとの「中間」はわかりにくいものです。
岩波文庫の註釈によれば、「唐代の俗語で、時間を表す言葉を副詞化」するそうです。
それで、この「遲晚中間」を「遅かれ早かれ」と訳しています。
「無常に帰す」の「無常」にもいろんな意味があります。
「無常」を『広辞苑』で調べてみると、
一番に仏教語して「一切の物は生滅・変化して常住でないこと。」という意味が書かれています。
二番に「人生のはかないこと。」とあります。
三番に「人の死去」と解説されています。
一般に「無常」というと、はかないことという意味で使われます。
元気な人が急に亡くなったりすると、無常だと言います。
しかし元来は、「生滅・変化して常住でないこと」が無常なので、たんにはかないという意味ではありません。
いい意味で変化するときには、「はかない」とは言いませんが、変化は無常なのです。
元気な人が具合が悪くなるのをはかないと言いますが、よくなっていくのも変化ですので、無常なのです。
すべては変化するのです。
よい意味も悪い意味もあります。
ここで「無常に帰する」という場合は、死を意味しています。
そうして全体をみてみると、夢幻のつれあいというのは、このお互いの肉体を言っているのだと分かります。
そこで岩波文庫の訳文では、
「諸君、君たちの幻のような連れを実在と思ってはならぬ。そんなものは遅かれ早かれするりと死んでしまうのだ。君たちはこの世で一体何を求めて解脱としようとするのか。
ひとくちの飯にありつき、衣のつくろいをして時を過ごすよりは、良師を訪ね歩いて教えを請うがよい。ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。
一念一念の間も死への一寸刻みだ。」と説かれています。
山田無文老師の『臨済録』には、
「おまえたちは、夢や幻のような連れ合いである体にとらわれてはいかん。体はこの心が連れておるお伴だ。体が主人公になってはいかん。体に使われるから、みんな迷うていくのである。
やれ食いたいの、やれ飲みたいの、やれ疲れたのと迷うのだ。体なぞというものは遅かれ早かれ、死ねば消えてなくなるものだ。そんな体に使われておるようでどうするかツ。
この世の中で一体何を本当の解脱とするか。一口の食ベ物を求め、ボ口をまとって日暮らしをしておるだけではないか。
やれ体に食べさせてやらねばいかんの、衣を着せてやらねばいかんのと、なんぼうまいものを食ベさせ、きれいな着物を着せてみたところで、それは体の満足だけである。心の満足にはならん。本当の解脱にはならん。それより、ともかく善知識をたずねて、心の安心を求めることじゃ。
やれ、今日はあそこへ行って一杯飲もうか、明日はどこやらで何を食べようなぞと、安楽を追うてグズグズしておってはならん。時間は刻々とたっていく、刻々と死んでいくようなものだ。
まア、お金でも儲かったら、その時は善知識をたずねてみようなぞと、そんなことを当てにしていたら、いつまでたっても道を求める時はないぞ。」
と提唱されています。
「念念無常」を『文字からはじめる禅』では「一念一念が無常(死)への歩みである」、岩波文庫では、「一念一念の間も死への一寸刻みだ」となっていて、無文老師は「時間は刻々とたっていく、刻々と死んでいくようなものだ」と説かれています。
実に身につまされるような表現であります。
そんなことを修行僧たちと共に学んでいました。
横田南嶺