生死事大
入制は、『文字からはじめる禅』をもとにして話をしています。
『文字からはじめる禅』のそのはじめに、
生死事大
光陰可惜
無常迅速
時不待人
という言葉が書かれています。
修行道場では、時を知らせたりするのに鳴らし物を用います。
その一つに木板を打ち鳴らします。
木板に書かれているのがこの言葉です。
「生死事大」というのは、「生死は一大事の事がらである」という意味です。
「無常迅速」は「人の世の移り変りがきわめて早いこと」を言います。
この木板に書くのは、修行道場によって多少違いがあります。
円覚寺の修行道場では、
生死事大
無常迅速
光陰可惜
慎莫放逸
と書いています。
無常を表すことばとして、「白駒の隙を過ぐるが若し」というのがあります。
こちらは『広辞苑』によれば、
「[荘子(知北遊)「人の天地の間に生くるは、白駒の郤(=隙)を過ぐるが若く、忽然たるのみ」]白馬が壁のすきまの向うをちらりと走り過ぎるようである。月日の過ぎるのは早く、人生の短いことをいう」のです。
そのあとに『臨済録』の言葉が引用されています。
『臨済録』については、岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。
「諸君、君たちの幻のような連れを実在と思ってはならぬ。
そんなものは遅かれ早かれするりと死んでしまうのだ。
君たちはこの世で一体何を求めて解脱としようとするのか。
ひとくちの飯にありつき、衣のつくろいをして時を過ごすよりは、良師を訪ね歩いて教えを請うがよい。
ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。」
という言葉です。
この言葉の前には、こんな言葉がございます。
「君たちが、衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら、今そこで説法を聴いている〔君たち〕その人が、実は形もなく姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動していることを見て取ることだ。
その人が発動するさまざまの方便はすべて、はたらきとしての跡かたを一切とどめぬ。だから追いかければ追いかけるほど遠ざかり、求めれば求めるほど逸れていく。ここが摩訶不思議というものだ。」と説かれています。
「生死事大、無常迅速」というと、道元禅師の『正法眼蔵随聞記』の言葉を思います。
こちらは、講談社学術文庫の『正法眼蔵随聞記』にある山崎正一先生の現代語訳を引用します。
「教えていわれた。無常迅速(人事、世間、一切の事象は、すみやかに、うつろいゆく、過ぎ去りゆく)なり。
生死事大(人間の生と死との真相を明かにするは、人間の生涯における最も重大な事)なり。
しばらくの命ある間に、何か業を身につけ学ぼうとするならば、なによりも、さとりの道(仏道)を行じ、さとりの真理(仏法)を学ぶべきである。
文章を書き詩歌をよむなどのことは、無益なことである。
これを捨てるべきは当然で議論の余地がない。
さらに、仏法を学び、仏道を行ずるに当っても、やはり多方面にあれこれと兼学してはならぬ。
ましてや学僧たちの顕教·密教の聖なる教えなど、全くやらずにおくべきである。
諸仏·祖師たちの言葉ですら、あれもこれもと多方面に学ぶべきではない。
ただ一つのことを専心することでも、生まれつき才智がにぶく器量が劣っている者には、なかなか出来がたいことだ。
ましてや、多方面を兼学しては、心のはたらきを静かにととのえることができなくなってしまうであろう。いけないことである。」
という、とても厳しいお示しであります。
また他のところには、次のように示されています。
「たとえ七十歲、八十歲まで生きられるとしても、結局は、死なねばならぬ道理なのだ。
したがって、その間の楽しみや悲しみ、夫婦·親子·兄弟姉妹の肉親の間の愛情や感謝の念、あるいは争いあう敵に対する憎しみの情など、結局は死すべき人生と考えて、その道理を明らかにしてゆけば、どのようにしてでも、一生をすごすことができよう。
ひたすら悟りの道を思い、生きとし生けるものの真の倖せを求めて努めるべきである。
ましてや、自分自身年齢が高くなった人、人生の半ばをすぎた人は、あとどれほど生きられるかと考えてみるなら、仏道修行をなおざりにすべきではないのだ。
だが、もっと切実なことがある。
世間のことでも、仏道のことでも、考えてみるがよい。
明日にでも、いや次の瞬間にも、どのような重病にかかり、東も西もわからず、はげしい苦痛にさいなまれることになるかもしれず、また、どのような不可視の神靈の怨みを受けて急死することがあるかもしれず、また、どのような暴賊に襲われ、また、自分をにくむ敵が現れて、殺され命をうばわれることがあるかもしれぬ。
まことに定めなき人生である。
このようであるから、これほどまでに儚い人生にあって、いつ死ぬことになるか全く判らないのに、いつまでも生きていようとして、さまざまに生活の方途を思案し、さらにその上に、他人に対し悪事をたくらみなどして、いたずらに人生をすごすのは、まことに愚かなことである。
この無常の道理は、真実の道理であるから、仏もこの道理を衆生のために說かれたのであり、祖師がたの說法や法語にも、この道理のみが說かれているのだ。
現在、住持が法堂にのぼって衆僧のため法を説く場合でも、また修行者が願い出て住持に教えを乞う場合でも、「無常迅速、生死事大」ということをいうのである。
くれぐれも、この道理を心にとめ、忘れることなく、ただ、今日、このとき、あるばかりと思って、時をむなしく過すことなく、学道に専心すぺきなのだ。」
と説かれています。
こんな言葉を胸に刻んで精進してまいります。
横田南嶺