こんとん
これまで学ぶというと、書物を開いて勉強をすることだと思っていましたが、こういう楽しい話を聞きながら、それでいて深く勉強になるということもあると知ることができました。
これもまた新しい学びであります。
小池さんと首藤さんとが明るく楽しく会話されているのです。
首藤さんという方が実におもしろい方であります。
自由で大らかで、それでいて人間の大切なところをしっかりと感じ取れる感性をお持ちでいらっしゃいます。
聞いている感じでは、首藤さんは、本当に何も準備もなさらずにお話なさっているように感じます。
そして二人で楽しそうに笑いながらも、小池さんはしっかりとテーマを決めてその問題へと向けようとされています。
それも優しい言葉で、専門用語などはほとんど使うことなく、人間として真理を掘り下げてくれているのです。
渾沌というのは『荘子』にある話です。
講談社学術文庫の『荘子 全訳注』にある現代語訳を引用します。
こんな話です。
「南の海を治める帝を儵(たちまち)、すなわちはかない人の為(しわざ)と言い、北の海を治める帝を忽(にわか)、すなわち束の間の生命(いのち)と言い、中央を治める帝を渾沌(文目(あやめ)も分かぬもやもや)、すなわち入り乱れた無秩序と言う。
ある時、儵と忽が、渾沌の治める土地で思いがけず出会つたが、渾沌は彼らを大変手厚くもてなした。
そこで、儵と忽は、渾沌の好意にお礼をしようと相談した。
「人間は、誰にも七つの竅が具わっていて、視たり聴いたり食ったり息したりしているのに、独り渾沌だけに竅がない。
一つ竅を鑿ってやろうではないか。」
こうして、一日に一竅ずつ鑿って行ったところ、七日目に渾沌は死んでしまった。」
という話であります。
この「渾沌」の話を、鈴木大拙先生が著書に引用されています。
そこで、渾沌で表そうとしているのは、「目とか鼻とかいう特別な官能を司る身体の一部ではなくて、身体という全存在で受け入れるはたらき」であると言われています。
更に大拙先生は、こんな興味深い話を書かれています。
アフリカの原住民に、アメリカの人が、「自分らは頭で考えている」というと、その住民達は、驚いて「それは気が狂っている、自分たちは腹で考える」と答えたというのです。
こういう風に頭で考えるのではなく、腹で考えるのが、荘子の説かれる渾沌だと大拙先生は言われています。
腹というと、東洋の思想かと思いますが、別段東洋に限ったものではなく、大自然と共に暮らしている人には、この腹が分かるのだろうと察します。
更に大拙先生は『東洋的な見方』の中で、
「自分が平常、「西洋人は、物の分かれてゆくところを見るに敏捷で、今日の文明、文化はことごとくそこから出発し、進展したもの、世界はそれで風靡せられているが、それだけでは自滅の域に突進するよりほかない」というのは、つまり、西洋人は、腹をわすれ、物の未分性に徹底せず、渾沌を殺すことにのみ汲々として、渾沌をそのままにして、しかも十分の働きー実はそうしないと、働かぬのだーそれを怠りがちにする。
東洋人は、それを警戒しなければならぬ。
東洋文化の根底には、天地未分以前、論理や哲学のできぬ先の、一物があって、そうしてそれを意識して来たというところーこれを忘れてはならぬ。
これが今日の世界を救う大福音であるのを、今の日本人は、若いものも、かなりの年の人々さえも忘れている。実は日本や東洋だけの話ではないのだ。」
と説かれています。
そんなことを考えていると、もう一つの話を思い出しました。
これもまた『荘子』にある話です。
こちらも講談社学術文庫の現代語訳を引用させてもらいます。
「人類最古の聖王黄帝は、ある時、赤水(川の名)を遡ってその北に旅をし、崑崙(こんろん)(西方の聖なる山)の丘に登って遥かに南方を見わたした。
さて帰ってみると、持ち物の玄い珠(道の擬人化)を遺れてきた。
そこで黄帝は、臣下の知(知恵の擬人化)という利口者に命じて搜させたが見つからず、目利きの離朱(上古の優れた視力の持ち主)に命じて搜させたが見つからず、口のうるさい喫詬(口やかましさの擬人化)に搜させても見つからなかった。
そこで、ぼんやり者の象罔(無形の擬人化)に命じたところ、象罔はそれを見つけてきた。
黄帝は言った。「不思議なことよ、ぼんやり者の象罔にこれが見つけられようとは。」
という話です。
「仏法は知らなさそうな人が知っていて、知っていそうな人は知らない。」という言葉を何かで見たのを覚えています。
臘八の修行というのは実にこの渾沌の世界に入っていくことができます。
朝の二時頃に坐禅をしている実に渾沌の世界なのです。
もう今が夜の坐禅なのか、朝の坐禅なのか区別がつかないのです。
そんな分別意識が消えてしまっているのです。
書物を読んで学ぼうとすると、どうしても分別意識が強くなります。
やはり時には渾沌の世界に触れることが大事だと思います。
喫茶混沌のラジオは、そんな臘八などの修行をせずとも聞いているだけで、渾沌の世界を味わえるのです。
横田南嶺