無所得
今月の末に賛助会員の方限定の企画があります。
所長と行く禅の旅というものです。
京都府八幡市にある円福寺を訪ねます。
なかなか定員に満たないというので、先日このYouTubeでご案内したところ、すぐに定員に達したということで有り難く感謝しています。
そのついでに禅文化研究所のYouTubeも撮影してきました。
墨蹟の紹介と山田無文老師の般若心経を読むという動画であります。
墨蹟の紹介は毎回自分でも勉強になります。
自分で勉強して、そして発表して、更にコメントもいただけるので有り難いことです。
毎回書と絵とを交互に紹介しています。
今回は絵の紹介です。
竹田黙雷老師の趙州和尚と犬の絵と讃が書かれた墨蹟を紹介しました。
黙雷老師がご自身で絵もお書きになっているのです。
書の方はとても謹厳なものです。
拝見するだけで背筋が伸びます。
しかし老師の絵は、どことなく温かみがあるのです。
ホッとするのです。
趙州和尚と犬の絵ですから、趙州和尚の無字の公案が説かれています。
讃にも
纔に有無に渉れば喪身失命せんと書かれています。
有るだ無いだの無と思ったら、命はないぞという意味です。
それから無文老師の『般若心経』を読んでいますが、今回は「無智亦無得」と「以無所得故」というところを解説しました。
特に無所得について考察してみます。
無文老師の『般若心経』にもここのところの解説は六行で済まされています。
その六行を紹介しました。
「この世の中には、自分のものと言えるものは何一つとしてない。家も財産も、学問も技術も、自分のものではない。
善悪の業さえも、すべては因縁によって、しばらく仮りに自分のところにあるだけであって、自分のものであるものは塵一つない。
この自分の体さえも、四大が仮りに集まっておるものであって、自分のものではないのだ、と分かることが般若の智慧であります。」
という文章です。
無所得というと『広辞苑』には、まず
「①収入のないこと。」とありますように、無収入のことを言っています。
しかし『広辞苑』にもその次には、
仏教語として「②〔仏〕執着・分別を離れ、何ものにもとらわれない境地。」
という解説もあるのです。
『禅学大辞典』にも「無所得」は
「得るところのないこと。何ものにもかぎらず得ようとする心のないこと。主客の対立分別に執着しない自由な境地。」
と解説されています。
更に岩波書店の『仏教辞典』には詳しく解説されています。
「対象を実体として知覚しないこと。
主観と客観の区別がないこと。
また、あれこれと思いはかることや、執着がないこと。
この場合、<無所有>ともいわれる。
とらわれの心がなく自由な境地。
<有所得>の対。
一般には、収入がないことや獲得するものがないことの意味でいわれるが、仏教では、実体として得るもののないことが空の認識と結びつくとみなされた。
「無所得、無所悟にて、端坐して時を移さば、すなはち祖道なるべし」という道元禅師の正法眼蔵随聞記にある言葉が記されています。
以前、真言宗のある講習会で、「虚にして往き実にして帰る」という言葉が説かれているのを聞いたことがあります。
これは「虚にして往き」ですから、はじめは何も持たずに空っぽで行って、そこで一生懸命勉強してたくさんのことを学んで、何かを得て帰るという意味です。
なるほどと思いました。
しかし、禅は反対なのです。
たくさん持って行って、何も持たずに帰ってくるということを、禅では尊びます。
何か得るものというものは、むしろ苦しみを生み出します。」
『虚堂録』には「稛て載せて往き、橐を垂れて帰る」という言葉があります。
一杯荷物を積んで行って、袋を空っぽにして帰ってくるという意味です。
「物持たぬ袂や軽し夕涼み」という心境を禅では尊ぶのです。
「空手にして郷に還る」という言葉もあります。
道元禅師が宋の国から帰ってきて言われた言葉として知られています。
『臨在録』にはこんなことが説かれています。
これも無所得を説いています。
岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を参照します。
問い、「初祖が西からやって来た意図は何ですか。」
師、「もし何かの意図があったとしたら、自分をさえ救うこともできぬ。」
「なんの意図もないのでしたら、どうして二祖は法を得たのですか。」
師、「得たというのは、得なかったということなのだ。」
「得なかったのでしたら、その得なかったということの意味は何でしょうか。」
師は言った、「君たちがあらゆるところへ求めまわる心を捨てきれぬから〔そんな質問をする〕のだ。」だから祖師も言った、『「こらっ! 立派な男が何をうろたえて、頭があるのにさらに頭を探しまわるのだ」』と。
ここで「達磨様が西からやって来た意図は何ですか」という問いは「禅とは何ですか」という質問と同じです。
しかし、「もしそこに何か意図があったら、それは自分すら救うこともできない」と臨済禅師は仰っています。
では、「何の意図もないのでしたら、どうして達磨様のお弟子の二祖は法を得たのですか」と問います。
それに対して、臨済禅師が言ったのは、「得たということは、得なかったということなのだ」と。
「得というは是れ不得なり」というのです。
逆を言えば、何も得ないということこそが、本当に会得をしたということなのだと。
何かを得たというものがあったとしたら、それはまた苦しみを生み出します。
得たものを守っておきたいとか、中には自分はこのようなものを得たのだ、あなたはまだ得ていないでしょうと、自分の慢心につながったりします。
本当に何も得なかったということこそが、本当に得たことになるのです。
『臨済録』では他のところで、
「得たものはもともと得ていたのであり、時を重ねての所得ではない。
もはや修得の要も証明の要もない、
得たということもなく、失うということもない。
いかなる時においても、わしにはこれ以外の方はない。
たとい、なにかこれに勝る法があるにしても、そんなものは夢か幻のようなものだと断言する」
と説かれています。
とても力強い確信に満ちた言葉です。
お釈迦様は
「所有(わがもの)というものなくとも、われらこころたのしく住まんかな。光音とよぶ天人のごとく喜悦(よろこび)を食物(かて)とするものとならんかな」。と仰せになっています。
禅の喜び、坐禅をすることの喜び、これが自分の食べ物、食料になっていくというのです。
何もないところからあふれてくる豊かな喜びです。
何もない無所得からこんな豊かな喜びがあふれてくるのです。
横田南嶺