人工知能に思う
村上和雄先生のお名前が出ていて、懐かしくうれしくなりました。
こんなことが書かれていました。
一部を引用させてもらいます。
「今は亡き村上和雄さんの『人生の暗号』(サンマーク出版)という著書に興味深いくだりを見つけた。
当時の最新のコンピュータに「どんな人間が最後に生き残るか」を推測させた。人が生きていく上で、根本的に大切な資質や力は何か、という意味の問いだったのだろう。
その結果、「力の強い人」「競争に勝ち抜いていく人」ではなく、「譲る心をもった人」という回答が出てきたそうだ。
村上さんは思った。「これは、他人のためを第一に考える人が結局報われるということではないか」と。」
と書かれています。
そして、
「村上さんは次のように言う。
「人の心は『他人のため』に献身的に努力しているとき理想的な状態ではたらく。よい遺伝子がONになるのです。」
と書いてくださっています。
いまから四半世紀前の文章なのですが、今にも通じることだと私も感じます。
さらにこの社説を書かれた山本孝弘さんは、
「そこで私はチャットGPTにも「どんな人間が最後に生き残るか」という同じ質問をしてみたところ、次の回答を得た。
①適応力が高い人
②協調性と共感力を持つ人
③自己管理ができる人
④学び続ける姿勢を持つ人
⑤ポジティブで希望を持ち続ける人」
と書かれています。
山本さんは
「最初の①は理解しやすい。生物はそのように進化してきた。②は前述のコンピュータの回答と通じるところがある。「力が強い」とか「競争に勝ち抜く」ではないのだ。
③には「感情のコントロールができ、冷静に判断できる」という文も付随していた。①と②のような人になるには不可欠な要素だ。
嬉しいのは④と⑤である。これは本紙読者さんの大半が当てはまるのではないだろうか。私たちは何らかの苦難が訪れても、生き残る資質を持っているのかもしれない。」
と書いてくれています。
今の人工知能がとてもすぐれているのだと耳にしていますが、的を得た解答をするのだと感心しました。
松居桃樓先生の『微笑む禅』の一番終わりに
「未来の綜合科学としての宗教」
という一章があります。
何度も読んでいる本ですが、先日知人が指摘してくれて改めて読み直していました。
コンピューターの構成と天台小止観で説かれていることには共通しているところがあるというのです。
松居さんは「例えばコンピューターなどの自動制御装置の構成の基本は、「中央情報処理部」と「入力装置」、「出力装置」から成っている。
この中央情報処理部にある記憶装置には、「こういうデータ(刺戟》が入ってきたら、こう処理せよ」というプログラムが入っているが、このプログラムが正確なものでなければ、入ってくる情報に対して、でたらめな指令を出してしまう。
そこで、情報処理をするのに、まず第一に必要なのは、プログラムが正しいかどうかの点検である。
それが小止観で「今までに、自分の頭の中に入っている観念を、徹底的に検討しなおせ」といっている「懺悔」である。」
と説かれています。
次に「さて、記憶装置のプログラムが「よし」となったら、次は入力装置である。
この装置は人間の眼、耳、鼻、舌、皮膚感覚に当り、ここに入ってくる色、形、音、におい、味、温度、湿度、摩擦、圧迫などの刺戟が、知覚神経を通して記憶装置に送り込まれるが、この入力装置が正常でないと、インプットされた情報(刺戟)に、間違いが入ってしまう。
天台大師が、眼と耳と鼻と口と触覚とに分けて、その一つ一つが正常かどうかを、そのつど調ベろというのが「呵欲」であって、「もし、間違っているとわかったら、すぐ、フィードパックせよ」と言っている。」
というのです。
「この入力装置の段階で、フィードバックを厳重にすれば、つまり「呵欲」を正しくやれば、誤った情報というものは、入っていかないことになる。」
のです。
「しかし、もし頭脳の中(中央情報処理部)の記憶装置に誤ったプログラムが残っていたり、演算装置に故障があると、正確な答が出力装置に出てこない。
つまり、外からの刺激に対して正しい反応ができないことになる。
では、中央情報処理部での意志決定が、正しかったか否か(アウトプットの解答が正しいかどうか)を、どうやって吟味するのか、そのチェックのしかたを、小止観の棄蓋では、「自分の行動に私情が混じっているか、いないか」によって判断せよ、といっているのだ。」
と五蓋を棄てることを解説されています。
「こうして「懺悔」を充分にし、「呵欲」と「棄蓋」を嚴密にすれば、コンピューターの点検は一応、完了する。」
というのであります。
なるほどであります。
松居先生は、
「しかし、考えてみれば、そんなことをいっている「人間の思考作用」というもの、これはほとんどの場合、家庭や学校や社会において、親や、先生や、先輩から教えこまれた記憶をふまえた、極めて不正確なプログラムによって、問題を処理しているのだから(世の中ではおおむねこれを常識として大切にされるわけだが)、これはいうならば、他から与えられたものを頭につめ込んで間に合わせていることであり、とても、機械を笑うことはできないだろう。」
と厳しく指摘されています。
松居先生の本は、もう半世紀も前の本ですが、鋭い洞察をなされていることに驚きます。
いずれにせよ、人工知能なども使いながら生きてゆく時代であります。
自分自身をよく調えておくことがいかに大事かを痛切に感じます。
横田南嶺