ご回向
和尚様方が集まる法要は次の日の月曜日なのですが、その前日にも法話と法要を務めました。
月曜には和尚様方だけの法要で、その前日の日曜の午後に檀信徒をお招きして私の法話と法要を行ったのでした。
これは布薩の精神によるものです。
和尚様の法要を斎会と申します。
一般にはお経をあげてみんなで食事をするものです。
これがコロナ禍ではとても問題になってしまったのでした。
皆で集まって声を出すお経などはよくないと言われました。
皆で食事をするのも駄目になりました。
その時が続いたのでした。
どうにかコロナ禍も終わったのですが、この斎会をどうするのか、食事をした方がいいのか、お弁当でいいのかという議論が為されたのでした。
私はあまりそういう議論は気になりませんでした。
もっと大事なことがあると思っていました。
もともと斎会の齋というのは、布薩の漢訳語でありました。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「中国の祭式用語を転用したもの。
漢語の<斎>は祭祀を行う前に飲食や行動を慎んで身心を清めること。
1カ月の内、8日、14日、15日、23日、29日、30日の六斎日(ろくさいにち)には寺に参って僧を供養したことから、転じて正午の食事を意味するようになった。
やがて仏事に供される食事一般をも<斎(さい)>と呼ぶようになり、僧に食事を供する法会である<斎会(さいえ)>などが成立した。」
と解説されています。
布薩は、同じく『仏教辞典』には、
「婆羅門教(ばらもんきょう)の新月祭と満月祭の前日に行われた儀式を仏教に取り入れたもの。
発展段階に応じて内容や表現に相違が見られるに至った。
半月に一度、定められた地域(結界(けっかい))にいる比丘達が集まって、波羅提木叉を誦して自省する集会。
のち、月に6回、六斎日(ろくさいにち)に在家(ざいけ)信者が寺院に集まって八斎戒を守り、説法を聞き、僧を供養する法会が盛んになり、これも<布薩>と称するようになった。」
というのであります。
もともとは布薩の日にお坊さんに差し上げる食事が齋でありました。
布薩を行って、在家の方もその日は戒を守り、和尚さんのお話を聞いて、そしてお坊さんに食事を供養したのです。
今や布薩などを行う寺院は少ないものです。
そんな話を東慶寺のご住職が聴かれて、先代の和尚のご供養に、二日間に亘って開催されたのでした。
前日に在家の信者を集めて法話を聞いて供養されたのでした。
私も法話では斎会の意義、布薩の意味、そしてよき習慣となる戒の内容を話しました。
二日間に亘ってお寺側もたいへんだと思いますが、よい法会となりました。
布薩をして教えを聴いて戒を守る、その功徳を亡き人にご回向するのであります。
岩波書店の『仏教辞典』に
「廻向という仏教語にはいくつかの発展段階がある。
布施(ふせ)の功徳を父母兄弟に廻らし向けるという例は、原始経典にみられる。
ここには、功徳は他に移し替えることができるというインド的な発想がある。
大乗仏教になると、廻向を受ける対象が一切衆生に拡大された。善行を単に自己の功徳としただけでは真の功徳とはならず、それを他の一切のものに振り向けることによって、完全な功徳になるという大乗仏教の思想がここにある。」
と解説されています。
そこでその日の法話では自然と布薩の内容となりました。
まずは懺悔文を解説しました。
「我 昔より造るところの諸々のあやまちは 皆はてしなき むさぼり いかり おろかさによる 身(からだ)と口とこころより生ずるところのもの すべて 我 今みな懺悔したてまつる 」
という懺悔の心であります。
今世で犯罪となるようなことはしていなくても、過去無量にさかのぼれば、何か人を傷つけることもあったろうと察します。
必要以上にほしがる貪りや、気に入らぬことに腹を立てる瞋や、どうでもよいことには関わろうとしない無知であります。
これらを懺悔してそのあと戒のもっとも基本となる三聚浄戒を話しました。
三聚淨戒を平たく訳すと「小さいことでも少しでも悪いことは避け、よいことをし、人にはよくしてあげよう、これがみほとけの教えです(松原泰道)」ということです。
具体的に悪いことをしないようにと五戒を選んで話しました。
五戒は次の五つです。
不殺生とは、命あるものをむやみに殺さないことです。
不偸盗とは、人のものを盗み取ることをしないことです。
不邪淫とは、道に逆らった愛欲を犯さないことです。
不妄語とは、嘘偽りを口にしないことです。
不飲酒とは、酒に溺れて生業(なりわい)を怠ることをしないことです。
摂善法戒とは具体的には「六波羅蜜」の実践です。
布施はほどこすこと、持戒はよき習慣、忍辱は耐え忍ぶこと、精進は勤め励むこと、禅定は心を静めること、智慧は正しく観ることです。
この六つです。
そして三聚浄戒の最後は人のためにできる限りのことをしてあげる習慣であります。
これは四無量心といって、慈悲喜捨の四つの心です。
慈悲の慈とは、思いやりのこころ、楽しみを与える情け深さです。
慈悲の悲とは、苦しみを除くあわれみです。
喜捨の喜とは、人々が楽を得るのをみて喜ぶことです。
喜捨の捨とは、かたよらぬ心、こころが平等であること、常に平静であることです。
そんな布薩の話をしました。
皆さんとても熱心に聞いてくださいました。
このようにして積んだ功徳を亡き人にご回向するのですと話をしたのでした。
斎会の前日の法要なのですが、こちらが教えを学び、戒を意識して暮らし、本来の齋に近いあり方だと感じました。
これは東慶寺の和尚が、私の話などを聴いてよく勉強してくださっているからであります。
横田南嶺