未来の子供たちのため
毎年担当している禅とこころという講座であります。
こちらの講座は前期三回、後期三回と年に六回講義をさせてもらっています。
それに近年は基礎禅学の講座があって、年に八回講義をしていることになります。
そのほかに大学の創立記念日に総長対談というのをさせてもらっています。
禅とこころの講座は毎年テーマを決めて講義をしています。
今年は新たに、夢窓国師の『夢中問答集』を読むというテーマで講義をします。
『夢中問答集』については、『広辞苑』に、
「仏書。夢窓疎石が足利直義のために、禅の要諦を問答体の和文で説いたもの。3巻。1342年(康永1)刊。夢中問答。夢中集。」
と解説されています。
足利直義については、これも『広辞苑』に
「南北朝時代の武将。
尊氏の弟。
兄と共に建武政権に叛き、幕府を開いてその実権を握ったが、尊氏の執事高師直と争い、尊氏と不和を生じた。
観応の擾乱で武家方の分裂をひき起こし関東に下ったが、鎌倉で毒殺された。
三条殿。錦小路殿。(1306~1352)」
と解説されています。
この足利直義が、夢窓国師にあれこれと質問した問答集なのです。
全部で九十三もの問答が載っています。
先日は第一回ということで、前半は夢窓国師というのは、どういう方なのかを話して、そのあと夢中問答集の中からふたつの問答を取り上げました。
『夢中問答集』については講談社学術文庫の『夢中問答集』、校注・現代語訳は川瀬一馬の本をもとにしました。
その現代語訳を引用して講義をしました。
まず第一の問答です。
「今生の福報」についてです。
質問は「多くの人々の苦しみを取り去って楽を与えることは、仏の大慈悲である。それなのに、仏の教えの中で、人間が福を求めるのをおさえるのは、何故か。」
という問いであります。
世間の人の苦しみを救うのが佛の慈悲ならば、世俗の幸せを求めている人には、その幸せがかなえられるようにしてあげればよいのに、欲をおさえるように説くのはどうしてかというのです。
夢窓国師は「世間で福を求める人は、あるいは商い・農作などの業をやり、あるいは金儲け・売り買いなどの計ごとを巡らし、あるいは手わざ・伎芸の働きをやったり、あるいはまた、人に勤め仕えてしあわせを得ようとする。やることはそれぞれ違っているが、そのねらいは皆同じである。 そのありさまを見ると、一生涯ただ身体を苦労するばかりで、そのねらいのとおりに求められた福もないようだ。その中に、たまたま求め得て、一時的に楽しむことがあったとしても、あるいは火事に遭い、洪水に流され、あるいは泥棒に取られ、あるいはまた役人に召し上げられる。たとい一生の間、かような災難に遭わなかった者でも、寿命が尽きる時、その福が身についてゆくことはない(死んだら持ってはゆかれない)。」
とお答えになっています。
そして「いまこの現世で貧人となっているというのは、前世で欲張った行ないをした報いである。」と仰せになっています。
「自分が治むべき領地を他人に奪い取られたがために貧しいのだと、腹を立てる者もある。これらもまた、御恩を蒙らず、領地を奪われたから貧しいのではないのだ。貧しくあるべき前世の報いの結果で、目をかけていただけるはずの御恩も給わらず、自分が治むべき領地をも治めることがかなわぬのである。それ故に、福を求めようとする欲心をさえ捨ててしまえば、福の受けまえは自然に満ち足りるであろう。」
というのであります。
こういう考えは、今の人には通じにくいかもしれません。
過去世の業の結果だと言われてもピンとこないということが多いように感じます。
ただ昔はそのように受けとめてきたのでした。
私の師匠の小池心叟老師も、幼くしてお寺に預けられてご苦労なされたのですが、修行していて、金剛経に、今人から罵られて軽んじられたりするのは、前世の業の報いであって、このように人に虐げられることによって、前世の罪が消滅するのだと説かれているのを読んで、救われたと話をしていました。
遠い昔の話でなく、昭和の時代でもそのように受けとめてきたのでした。
それからもう一つ取り上げたのは、「後生の果報の祈り」です。
質問は「今生(現世)の名利を祈ることこそ愚かだが、後生の果報を祈るというのなら賢いと言わねばならぬと思うがどうか。」というのです。
「今生の名利を祈るのを禁ずることは、今生の夢幻のような名利を祈るよりは、来世に無上の仏道を成し遂げることを祈りなさいと勧める所以だ。」と仰せになっています。
このような教えも輪廻を前提としています。
もし前世や来世を受け入れ難いという人がいたとしても、前の時代の行いが今の世に影響していることは理解できるでしょう。
また今の時代に行っていることが、次の世代の人たちに影響を与えてゆくことも理解できるでしょう。
そのように理解してもよろしいかと思って、そんな説明をさせてもらったのでした。
今こうして戦争に巻き込まれない世の中になっているのは、先人たちのご苦労のたまものです。
今私たちが、環境を汚してしまったりしたら、次の世代の人が困るようになります。
こうして自分一代さえよければという思いを離れることができます。
仏教を学ぶということは、結局は無我という道理に徹することにほかなりません。
自分一代さえよければという思いを離れることは無我に通じるのであります。
その日は授業のあと、図書館の前の広場で、花まつりを行いました。
花園学園の洛西花園幼稚園の園児たちが来てくれて、ともに花まつりを行いました。
園児の代表が灯明やお花を供えてくれて、そして歌を披露してくれていました。
園児たちが合掌している姿は仏様そのものです。
そんな子供たちを見ていると、この子らの未来のために私たちは今努力をしておかないといけないのだと思いました。
未来の子供たちのためにと考えることも自我意識を薄めてくれるものであります。
横田南嶺