精一杯生きよう
それは幼稚園の卒園児のための色紙であります。
円覚寺には幼稚園があって朝比奈宗源老師の頃から、卒園児には管長が色紙を書いて贈る習慣になっています。
先代の足立大進老師は、「すなお」の三文字をひらがなで書かれていました。
すなおに生きるということは難しいことです。
かの松下幸之助翁は「素直」ということを大事にして、「碁は一万回打てば初段ほどの強さになれるというので、素直も同じように、一万日すなわち約三十年強く願えば、その初段ほどになれるのではないかと考えた」といいます。
私は少々長い言葉ですが
花が咲いている
精一杯咲いている
私たちも
精一杯生きよう
と書いてます。
この言葉を書くたびごとに恩師の松原泰道先生を思い起こします。
松原先生は、明治四十年一九〇七年のお生まれで、平成二十一年二〇〇九年にお亡くなりになっています。
満百一歳でいらっしゃいました。
私と松原先生との出会いは、中学生の時にさかのぼります。
紀州の田舎で生まれ育った私は、ある日ラジオを聴いていて、たまたま松原先生の法句経の講義を聴くご縁に恵まれました。
当時はまだテレビは一家に一台の貴重品で、父親が見るものであり、子供が勝手に見るものではありませんでした。
ラジオが楽しみでよく聞いていました。
そこで松原先生の法句経の講義が月に一回、一年間連続でございました。
NHKラジオの宗教の時間でした。
法句経というお経の講義ながら、いかにも現代的なわかりやすい、明朗な口調で語りかけてくださいました。
引き込まれるように毎月聴いていました。
その十二回の講義が終わった頃、たまたま上京する機会があり、是非ともこの先生に一度お目にかかりたいと思い、手紙を書いて出しました。
今にして思えば随分無茶なことをしたものです。
当時の松原先生は『般若心経入門』をお書きになって、それがベストセラーになって、講演に法話に執筆に多忙を極める毎日でした。
しかしながら、親切な松原先生は、全く面識のない一中学生の手紙にも親切なご返事を下さり、面会のお約束をしてくださいました。
これが私の一生を決めたのでした。
そして紀州の田舎から初めて上京して、三田の龍源寺で初めて松原先生にお目にかかりました。
何を話したのか、全く覚えていませんが、たぶん生意気なことを申し上げ失礼なことをしたと思います。
その初対面の時に、私は何とも無礼にも、色紙を持っていて「仏教のお経はたくさんあり、本もたくさんあります。とてもすべてを学ぶことは不可能です。そこで仏教の教えを一言で言い表す言葉を書いてください」とお願いをしたのでした。
今思い出しても冷や汗が出ます。
今の私にもし中学生が同じ質問をしてきたら、相手にしないかも知れません。
しかし松原先生はいやな顔ひとつせずに、お書き下さいました。それは短い詩でした。
それが
花が咲いている
精一杯咲いている
私たちも
精一杯生きよう
という言葉でした。
「花はなぜ咲くのか、考えなさい、それは種を残すためとか言われるでしょうが、その花が咲いている姿を見て何かを学ぶことが大切です。
花は与えられた命を、与えられた場所で精一杯咲いている、その姿を見て自分も精一杯生きようと学ぶことです」と、確かそのようなことをお話し下さいました。
はじめはこんな詩の何処がいいのかわからなかったのですが、あれから私の修行時代を支える言葉となりました。
何事もとにかく精一杯つとめる、これしかありません。
出来る出来ないとか、結果を問うのではなくて、今精一杯つとめる事です。
そしてその後、たまたま大学が関東の大学に受かりましたので、そのときにもご挨拶に伺いました。
その折りに、紀州の田舎から上京した私に松原先生は、大学の保証人になってあげようと言ってくださり、これも感激しました。
お言葉に甘え、保証人の書類にも後日署名捺印いただきました。
そのときに、今までも田舎で坐禅を続けましていましたので、これから東京で坐禅するお寺とお師匠さんをご紹介下さいとお願いしました。
そうしましたら、松原先生は、文京区白山の小池心叟老師が良かろうとお教えくださり、この白山の小池心叟老師のもとで私は出家し、ここのお寺が円覚寺派でしたので、こうして円覚寺ともご縁をいただくこととなったのです。
当時松原先生は、それこそ文字通り日本全国を駆け回る毎日でしたが、毎月の第一土曜日の坐禅の会には龍源寺に見えてお話し下さいましたので、第一土曜日には欠かさず龍源寺にいっては朝からお寺の掃除をして、お昼をご一緒にいただき終わった後も掃除片付けをして、また晩ご飯をご一緒にいただいていました。
今にして思っても何とも有り難い日々でした。
当時の松原先生は、昼間は各地の講演会をまわり、お寺では毎朝午前二時に起きられて原稿を書かれていました。
時間厳守が信条で、たしか午前六時ちょうどに朝のお勤めをなさっていました。
ご日常はいかにも質素枯淡で、お召しものも普段は質素、お食事もお昼は必ずおうどん、夜はお茶漬けでした。
それでいて常に人様のために少しでも仏教の教えを説くのだという強いご信念のもと、休まずにおつとめでした。
そんな松原先生のご日常にふれて、私も是非この道を歩みたいと思うようになったのでした。
幼稚園の子たちに
花が咲いている
精一杯咲いている
私たちも
精一杯生きよう
と色紙に書きながら恩師松原先生のことを思い出していました。
横田南嶺