博多の禅
それが「二十四流」と言われています。
初伝はなんといっても栄西禅師であります。
栄西禅師は、西暦一一四一年にお生まれで一二一五年にお亡くなりになっています。
栄西禅師は二度にわたって南宋に渡り、二度目は一一九一年に帰朝されています。
二度目の入宋は、遠くインドに行き仏跡を巡拝する為でありましたが、通行の許可が下りず、禅を学んで日本に伝えたのでした。
帰朝した時に栄西禅師は五十歳でありました。
一一九四年に博多に聖福寺を建てました。
聖福寺の山門には「扶桑最初禅窟」という勅額が掲げられています。
後鳥羽天皇より授かったものです。
後に栄西禅師は鎌倉に招かれて寿福寺を開き、更に二代将軍源頼家公が開基となって建仁寺を開かれました。
建仁寺の開創が一二〇二年であります。
栄西禅師が京の都に建仁寺を開創された年に、静岡にお生まれになったのが、聖一国師円爾弁円禅師であります。
この聖一国師が二十四流の第三伝となります。
第二伝は道元禅師です。
道元禅師は一二〇〇年のお生まれで、一二二七年に日本に帰り、禅の中でも曹洞宗の教えを伝えました。
道元禅師より二歳ほどお若いのが聖一国師であります。
聖一国師は五歳の時に地元の久能山に上って仏教を学んでいました。
十八歳で近江の園城寺で剃髪し東大寺で受戒しました。
京に上っては儒学などを学び、園城寺でも仏教を学んでいました。
群馬の長楽寺に行って栄西禅師の弟子である栄朝禅師についても学んでいました。
のちに鎌倉にいって寿福寺で学んでいました。
一二三三年南宋に行くことを決意しました。
三十一歳であります。
一二三五年に宋の国に渡っています。
宋の国では名だたる禅僧について修行を重ねて、径山の無準禅師について修行をしました。
その無準禅師仏鑑禅師から印可を得て一二四一年に帰朝しました。
三十九歳であります。
宋出身の貿易商謝国明の援助により一二四二年に博多に承天寺を開いています。
その後京に上り九条道家の帰依を受けて東福寺を開創されたのでした。
東福寺は、奈良の大寺院である東大寺に比べ,また同じく奈良の興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのでした。
嘉禎二年(一二三六年)より建長七年(一二五五年)まで実に十九年を費やして完成したのでした。
第四伝は和歌山県の由良興国寺を開創した法燈国師です。
第五伝は、大覚禅師で建長寺の開山であります。
第六伝は、兀庵普寧禅師で建長寺に住されました。
第七伝は、大休正念禅師で円覚寺の第二世であります。
第八伝が無象静照禅師です。
そして円覚寺の開山仏光国師は、第九伝となります。
仏光国師も径山で無準禅師について修行しています。
聖一国師が無準禅師から印可を受けて帰るのが一二四一年で仏光国師は十五歳でしたので、径山でご縁があったかどうかは分かりません。
栄西禅師は京都に建仁寺を開く前には、博多に聖福寺を建てておられますし、聖一国師も京の都に東福寺を開く前には、博多に承天寺を建てておられます。
博多の地は、禅にとっては重要なところであります。
博多には崇福寺という禅寺もございます。
こちらは堪慧禅師が開創されています。
堪慧禅師も入宋し無準禅師に参じた方であります。
もとは太宰府にありました。
聖一国師が開堂演法し、後に大応国師南浦禅師が住されて、大いに禅風を挙揚されたお寺です。
大応国師の禅は、後に大燈国師、関山慧玄禅師へと伝わって今日の臨済禅となっています。
崇福寺は慶長六年一六〇一年に黒田長政が福岡に築城した折に今の博多の地に移されています。
その聖福寺、承天寺、崇福寺は博多の三刹と言われています。
この承天寺に住しておられたのが、私の兄弟子遠藤楚石老師でありました。
先月七十九歳でお亡くなりになって、その津送に行って参りました。
老師に薬湯を捧げるというお役を務めてきました。
老師は、小池心叟老師の一番初めのお弟子であり、私は一番末の弟子でありました。
私がまだ学生の頃、老師は建仁寺で修行を終えて承天寺にお入りになることが決まったのでした。
当時老師はまだ三十八歳くらいだったと思います。
お若い老師が、博多の名刹にお入りになったのでした。
承天寺を聖一国師が開創された頃の姿に戻すのだと大きな夢を語っておられたのを拝聴していました。
果たして老師はその後仏殿を建立し、承天寺の伽藍を見事に再興されました。
老師は還暦を前にして早く承天寺をお譲りになって太宰府のお寺にお住まいでいらっしゃいましたが、東福寺の管長にも晋山なされました。
一期五年間管長をおつとめになられました。
臨済禅師千百五十年の遠諱の時には、東福寺の管長でいらっしゃいました。
お互い小池老師の弟子として、季刊『禅文化』で対談したこともありました。
東福寺の本山からは承天寺中興の称号を授かっています。
老師には四十数年にわたっていろいろの教えをいただきました。
最後に老師の真前に薬湯をお供えできたのは有り難いことでありました。
横田南嶺