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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.12.04
今日の言葉

神々が体に鎮座

臘八第三夜の示衆は、少々長いので、原文をすべて紹介することはやめて、その意味だけを書いてみます。

禅宗では、お釈迦様以来代々教えを継承していることを尊んでいます。

修行道場では、逓代傳法仏祖の名號といって、お釈迦様以来、ずっとインド中国日本へと法を伝えられた方々のお名前を読み上げています。

円覚寺ではお釈迦様から先代の慈雲大進禅師まで読み上げているのです。

この代々教えを継承してくださった方々を傳燈の菩薩といいます、

そしてその教えを護持してくれるのを護法の菩薩と言います。

修行は一人ではできません。

守ってくれ、ささえてくれる方がいてこそ出来るものです、

この傳燈と護法の関係は、師家と檀越のようなものだといいます。

法を伝える師家の方がいて、それをささえてくれる檀家の方がいるのです。

檀越というのは、今でいえばスポンサーにあたるでしょう。

師家と檀越とが力合わさって仏法は行われてゆくのであって、一人の力でできるものではないのです。

昔弘法大師が、大日如来に、護法の菩薩では、誰が一番いいですかと問うと、弁才天にしくものはないと答えられました。

弁才天は、「音楽・弁才・財福などをつかさどる女神。妙音天・美音天ともいう。二臂あるいは八臂で、琵琶を持つ姿、武器を持つ姿などに表される。

もとインドの河神で、のち学問・芸術の守護神となり、吉祥天とともにインドで最も尊崇された女神。

日本では後世、吉祥天と混同し、福徳賦与の神として弁財天と称され、七福神の一つとして信仰される。」と『広辞苑』に解説されています。

円覚寺でも弁才天をお祀りしています。

法を伝える傳燈が第一でありますが、護法の力がないと仏法も伝わらないのです。

ですから護法というのも大事だと説かれています。

そのあとは少し原文を紹介します。

坐禅について書かれているところです。

「又坐禪は一切諸道に通ず。
若し神道を以て之を云えば則ち身は即ち天地の小なるものなり。天地は則ち身の大なるものなり。

天神七代、地神五代、並に八百萬神悉く皆身中に鎮坐せり。此の如く鎮坐の諸神を祭祀せんと欲せば、神史に所謂る霊宗の神祭に非ずんば則ち之を祭る事能わず。 靈宗の神祭は禪定に非ずんば之を祭る事能わず。

背梁骨を豎起し氣を丹田に満たしめて正身端坐、眼見耳聞一點の妄想を雜えず、六根清浄なる事を得るときは則ち是れ天神地祇を祭る也。」

というところです。

坐禅は諸道に通じるとはよく言われます。

剣禅一如とか、茶禅一如など言われ、剣道、茶道などにも通じます。

神道にも通じて説かれています。

神道では、この体は天地の小なるもので、天地は体の大なるものだというのです。
そこで天の神七代、地の神五代、それから八百万の神々がこの体に鎮座されていると説かれています。

この体に鎮座なされている神々をお祀りするには、霊宗の神祭でなければならいないといいます。

ではその霊宗の神祭というのは、どういうものかというと、それは禅定だというのです。

禅定でなければ、身中に鎮座する神々をお祀りすることはできないのです。

坐禅は、体に鎮座する神々のお祀りだというのです。

そこで坐禅について、

「背梁骨を豎起し」腰骨を立て背骨を立てて、「氣を丹田に満たしめて」気海丹田に気を充実させて、「正身端坐」します。

まっすぐに坐るのです。

「眼見耳聞一點の妄想を雜えず、六根清浄なる事を得るときは則ち是れ天神地祇を祭る也。」とあって、目で見るもの、耳で聞くもの、そこに一点の妄想もまじえないのです。

そうして六根清浄になると、天地の神々をお祀りすることになるのだというのです。

山本玄峰老師の『無門関提唱』には、

「山岡鉄舟に

「一体坐禅というものはどんなものじゃ」とある人が聞いたら

「あれはちょうど石鹸みたいなものじゃ」と答えた。

おかしいじゃないか。垢で垢を落すのじゃ。

公案とか何とかいうが、みな垢の一つのようなものじやけれども、その垢をもつていかんとほかの垢が落ちん。

石鹸がソーダがないとほんとうに垢じんだものが白くならないのと同じことじや。からだの垢は自然にいつついたやらわからん。心の垢もそうじゃ。」

と説かれています。

そうして六根清浄にしてゆくのです。

こんなお話を私はまだ小学生の頃に目黒絶海老師から拝聴したのでした。

なにか分からないけれども坐禅はすごいのだと思ったものです。

それからこの体に八百万の神々が鎮座しているとはどういうことかなと思いました。

私の『いろはにほへと』という書物に、こんなことを書いています。

「人間には何十兆もの細胞があって、総力をあげてがんばってこの命を保ってくださっています。
あらゆる命あるものは生きようとする素晴らしい力を持っています。それは仏心仏性といっても同じことであります。」

というのです。

あらゆる細胞が総力をあげて生かしてくださっている様子は、まさに八百万の神々が鎮座されているのと同じだと思うのであります。

そこで最後に

「一炷の坐と雖も其の功徳鮮しとなさず。
是の故に道元禪師曰く、勤むべきの一日は貴むべきの一日也。勤めざるの百年は恨むべきの百年なりと。嗚呼恐るべく慎むべし。」

と道元禅師のお言葉を引いて示衆が終わっています。

努力しなければと思うのであります。

 
横田南嶺

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