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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.11.13
今日の言葉

良かれと思っても

この頃はよく褒めて伸ばすということが言われます。

たしかに褒められると頑張ろうという気になるものです。

私たちの修行の世界では、褒めるということはほとんどありませんでした。

私の場合、先代の管長にお仕えしてきて、三十年来褒められた記憶はありません。

いつもお叱りを受けるか、お小言を頂戴するかでありました。

おそばで毎日のお料理をお作りしていた頃もありましたが、おいしいとか、よく出来ているというようなことを仰ることはありませんでした。

手間暇をかけて作ったものには、こんなことをする暇があれば、もっと他にやることがあるだろうとか、仰ったものでした。

もうお亡くなりになると、そんなお小言のひとつひとつが懐かしく有り難く思うものです。

それでも長年お仕えしていると、お料理にもお小言を仰せになりながらも、その表情や仕草でおいしいと思ってくださっていることが分かるものです。

それでこちらはじゅうぶんに満足したものでした。

そんな修行をしていると、おそばにいて、言葉にせずとも伝わるものがあると分かってくるのであります。

先代の管長は実際に畑で麦踏みなどをなさっていた経験がありました。

そこで修行僧の指導は麦を踏むのと同じだ、踏めば踏むほどよくなるのだという理論でありました。

もう「麦踏み」も今は伝わらないかもしれません。

「麦踏み」は

「麦の伸び過ぎを押さえ、根張りをよくするため、早春、麦の芽を足で踏むこと」と『広辞苑』に解説されています。

麦は踏んでこそよくみのるものなのです。

しかし、この頃はこの「麦踏み」理論は通じません。

やはりところどころで褒めてあげないと難しいものです。

私は、よく出来たお料理の時は、よく出来ましたねと褒めますし、おいしいと、おいしいですと言ってあげるようにしています。

その方がやりがいがあると思うのです。

しかしただ褒めればいいというわけでもありません。

たとえば「褒め殺し」という言葉もあります。

こちらも『広辞苑』に載っています。

①ほめて、その者を駄目にすること。

「贔屓が役者を褒め殺しにする」という用例があります。

それから
②誉め言葉を連ねつつ相手を責めること。

という解説があります。

この頃は更に褒めることもハラスメントになるという「ほめはら」なる言葉もあると聞きました。

なかなか褒めることも難しいものだと思うことがありました。

滋賀県在住の高校教師の方から毎月「虹天」という冊子を送っていただいています。

これを毎月読むのが楽しみなのであります。

今月号にもある高校三年生の方の話が心に残りました。

そして深く考えさせられました。

「すべての経験はこれからの幸せのために」という題で書かれた文章でした。

その高校三年生の女性の担任となったときの話です。

その生徒は高校二年まで成績オール「5」で超優秀だったそうです。

そして努力家で、部活も熱心だったのでした。

先生はその女生徒のことを「いわゆる超ストイックで完璧主義な生徒」と表現されています。

この生徒自身、自分には才能がないので、人並みに努力してもダメ、最近は毎日四時間の睡眠だというのです。

それが5月の連休明けから、その生徒は咳が止まらなくなったそうなのです。

毎晩明け方まで寝られなくなり、学校も休むようになりました。

内科の診察では問題はないということです。

そこで大きな病院の精神科にも通うようになったのでした。

とうとう歩くことさえ満足にできず杖をつきながらお母さんと一緒に登校するようにまでなってしまったのでした。

だんだんとそのお母様も衰弱されてきました。

それが七月の頃、変化がみられました。

これまで目指していた大学の受験をあきらめて、将来やりたいことにつながる別の大学を面接で9月に受けるというのです。

夏休みに部活動を引退してからは気持ちが楽になったのか咳が止まったというのです。

これはよい結果になりました。

ただお母様がこんなことを仰ったというのです。

「私は昔から、あの子ががんばって何かできたときにはよく褒めてあげました。

でも、『もっとやれば、こんなこともできるかも知れないね』と、さらに上を目指させるような言葉も言っていたように思います。 何かに挑戦する場面でも、『どうする?やってみる?」と聴きながらも、ついついやらせる方向に誘導していました」というのです。

お母様が、自分のことを責めていらっしゃるのです。

お母様にはなんの悪気もありません。

褒めてあげていたのです。

でも「もっとやれば」という気持ちが彼女を苦しめることにつながっていたのかもしれません。

その先生は「やはり、がんばれって言い過ぎたり、期待しすぎるのはよくないかもしれませんね・・・」なんて言ったりしたら、お母様はいたたまれない気持ちになると察しました。

そこでそのお母様に伝えた言葉が、

「すべての経験は、その人のこれからの幸せのために必要だからこそ、天が与えてくれたんだ」と思ってみるのはいかがでしょうということでした。

素晴らしい話だと感動したのです。

それと同時に深く考えさせられました。

これは誰も悪くないのです。

お母様も子供にとって良かれと思っています。

お子さんも一所懸命に頑張る子だったのです。

でもそれが自分を追い詰めることになっていたのです。

そこで私は仏教で説く「四無量心」を思いました。

岩波書店の『仏教辞典』には

「四つのはかりしれない利他(りた)の心」とあります。

更に具体的に

「慈、悲、喜、捨の四つをいい、これらの心を無量におこして、無量の人々を悟りに導くこと。

<慈>とは生けるものに楽を与えること、

<悲>とは苦を抜くこと、

<喜>とは他者の楽をねたまないこと、

<捨>とは好き嫌いによって差別しないことである。

これを修する者は大梵天界に生れるので<四梵住>ともいう。」と解説されています。

慈は相手に何かしてあげることです。

悲は共に苦しみ悲しむ心です。

喜は、相手の幸福を共に喜ぶ心です。

最後の「捨」が難しいのです。

『仏教辞典』に「捨」は「無関心、心の平静、心が平等で苦楽に傾かないこと」と解説されています。

「平静」である、相手に対する平静で落ち着いた心でいることです。

ただありのままを認めるといってもよろしいかと思います。

褒めることもなければ、悲しむこともないのです。

それでは何もしないのかというと、これが相手にとっては救いになるのです。

この女生徒の話からはいろんなことを学びます。

私たちは、良かれと思っていてもそれが人を苦しめることにもなると知っておくべきです。

「若し善根を作せば有相に住し、還って輪廻生死の因と成る」という言葉があります。

良いことをしても、また、良かれと思っても、それがかえってよしあしの姿にとらわれてしまい、迷い苦しみの原因ともなるということです。
常に自分自身の心を平静に保つようにすることが大事なのであります。

道ばたのお地蔵さんは、ただ黙って私たちのことを見守ってくれています。

よいとも悪いとも言いません。

ただ見守ってくれる、そんなお地蔵さんの心が「捨」なのだと思います。

 
横田南嶺

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