死を恐れる心から
鈴木正三と、盤珪禅師と白隠禅師であります。
この三人に共通しているところは、幼少より死について深く考えていたということです。
鈴木正三は、四歳の時に同年の子供の死に会い、長く死についての疑問が続くようになったのです。
十七歳で『宝物集』(仏教説話集)を読み、雪山童子の話を知って感動します。
真実を求めるためには自らの身命をも惜しまぬ気持ちを起こしたのでした。
盤珪禅師は二、三歳の頃より、死ぬということが嫌いで、泣いた時でも人が死んだまねをしてみせるか、人の死んだことを言って聞かせると泣き止んだというのです。
白隠禅師は、五歳の時、ひとりで海に出かけて、そこに浮かんでいる雲を眺めて世の無常を感じて大声で泣いてしまったというのです。
それから白隠禅師は十一歳の時に、母に連れられて昌源寺にお参りに行き、伊豆窪金(雲金)の日厳上人が、地獄の説相を説くのを聴かれました。
上人の弁舌は実に巧みで、熱鉄や釜の上で身を焼き苦しめられる焦熱地獄や、身が裂けて真っ赤になる紅蓮地獄の苦しみを目の前に見えるかのように話しました。
まだ少年だった白隠禅師は、これを聞いて身の毛のよだつ思いがしました。
そして心に思いました、
「自分は常日頃、好んで小動物を殺してしまうなど、乱暴をして来た。
だからきっと地獄に堕ちて永遠に苦しみを受けるだろう。
もはや逃れようはない」と。
全身が戦栗して、何をしていても心が穏やかではなくなりました。
そこで地獄から逃れるにはどうしたらよいか、母に聞くと、天神様を拝むとよいと教わって一心に天神様を拝んだのでした。
死を恐れる心は無常を覩る心であり菩提心に通じます。
菩提心とはこの無常を観る心なのであります。
この心がもとになって道を求めます。
そしてそれぞれに死の問題を解決してゆかれました。
盤珪禅師は、不生の仏心に気がつかれました。
不生の仏心とは、生じることもなく滅することもないものです。
何も生じていないのですから、滅する道理もないのです。
「禅師の曰、仏心は不生にして霊明なものに極りました、不生なる仏心、仏心は不生にして一切事がととのひまするわひの」と説かれています。
仏心というのは生じたものではないのです。
誰かによって生じたものではありません、
また、何らかの条件によって作り出されたものではないのです。
だから条件によって滅することもありません。
不生不滅の素晴らしいものです。
仏心は不生、その仏心で全ては調うのだと気がつかれました。
白隠禅師は、二十四歳の時に高田の英巌寺で坐禅していて悟りを開いたのでした。
「ある夜、お霊屋で坐禅して、恍惚としているうちに明け方になった。そのとき、遠くの寺の鐘の音が聞こえて来た。
かすかな音が耳に入ったとき、たちまち根塵が徹底的に剥げ落ちた。
さながら耳元で大きな鐘を撃ったようである。ここにおいて、豁然として大悟して、大声で叫んだ、
「わっはっはっ。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。岩頭和尚はまめ息災であったわやい」と。」
という体験をなされたのです。
賊に襲われて亡くなったと聞いて失望落胆していたのですが、その岩頭和尚は死んではいない、まめ息災だと気づいたのでした。
そしてそれぞれの祖師は、その死ぬことのない仏心を人々に説いてゆかれたのです。
大学で講義をした翌日は、円覚寺で致知出版社の後継者育成塾の講義でありました。
これはそれぞれの会社の後継者となる方のための研修会であります。
毎年担当しているものです。
今回は、木に学ぶと題して講義をする準備をしていました。
ただその始めに花園大学で廣瀬順子さんに出会った話をしました。
楽しむということの大切さをお話しました。
何にしても楽しんで学ぶことは大事であります。
もっとも楽をしようというのではありません。
廣瀬さんの柔道の練習にしても、パラリンピックの金メダルを目指して練習するのですから、楽なはずはありません。
過酷にみえる練習でもその中に喜びや楽しみを見いだしてゆくのです。
少しでも何か自分に変化があると楽しいものです。
些細なことでも出来なかったことが出来るようになるのを見つけると楽しいものです。
そのように楽しみを見つけてゆく心が大事です。
そのあと天台小止観をもとに心を調える方法を学びました。
呼吸を調えるところを紹介します。
「息がととのうのに、四つの有り様がある。
一は風の有り様であり、二は喘の有り様であり、三は気の有り様であり、四は息の有り様である。
最初の「風・喘・気」の三つは、息がととのわない有り様であり、最後の一つの「息」は、息がととのう有り様である。
「風」の有り様は、どのようなことであるのか。
それは、坐禅の最中、鼻から出入りする呼吸に、声が立つのを感知することである。
「喘」の有り様は、どのようなことであるのか。
それは、坐禅の最中、呼吸に声は立たないが、出入息が詰まって滞るのが、喘の有り様である。
「気」の有り様は、どのようなことであるのか。
それは、坐禅の最中、声も立たないし、息が滞ることもないが、出入息が細やかでないのが、気の有り様であると呼んでいる。
「息」の有り様は、声も立たず、滞ることもなく、粗くもなく、出息も入息もあるのでもなく、ないのでもなく長く続き、身体を確り保ち、穏やかで、心に深い喜びを抱くことである。
これが息の有り様である。
「風」の状態を続ければ心は乱れ、「喘」の状態を続ければ心は滞り、「気」の状態を続ければ心は疲れるが、「息」の状態を続ければ心は安定する。
またつぎに、坐禅の最中に、呼吸が日常生活の風・喘・気の三つの有り様であれば、心はととのわない。
その状態で、心を働かせる者があれば、風・喘・気の三つの呼吸の有り様は、思いともなり悩みともなる。
従って、心もまた、集中し安定することは難しい。
もし心をととのえようと願うならば、三つの方法によらなければならない。
一は、心を下に置いて安定することである。
二は、身体をゆったりとすることである。
三は、大気が毛穴に満ちわたり、毛穴を出入りして通い、妨げることがないと思うことである。
この思う心が細やかなものであれば、息はあるかなしかの微かなものとなる。
このように息がととのえば、諸々の思いや悩みが生じる余地はない。修行者の心は一点に集中し、安定し易くなるものである。」
という呼吸を調える方法です。
こちらは山喜房仏書林の『天台小止観の訳注研究』からの引用です。
これもまず自分の呼吸は荒い呼吸なのか、なめらかなのか観察することです。
観察しているとだんだんと静かに調ってくるものです。
祖師方は死を恐れる心から道を求めて、こういう地道な修行を通して、あるときの縁にふれて生じることも滅することもない仏心に目覚められたのであります。
横田南嶺