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臨済宗大本山 円覚寺

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2024.02.09
今日の言葉

悲しい時は「悲しい」になりきる

趙州和尚の無の一字が、「無になりきる」という修行となっていきました。

そんな歴史の過程をお話させてもらってきました。

禅の修行の現場では、よく「なりきる」という言葉が使われます。

「なりきれ」というように叱咤されることもよくございます。

『碧巌録』の第四十三則に「洞山無寒暑」という公案があります。

岩波書店の『現代語訳 碧巌録』の末木文美士先生の訳を参照させてもらいます。

「僧が洞山に問うた、
「寒暑が来たら、どう避けましょうか」。
洞山「どうして寒暑の無いところへゆかぬ」。
「寒暑のない処とはどんなところですか」。
洞山「寒い時には、そなたを凍え切らせ、熱い時には、そなたをこの上なく熱くするのだ」。

というものです。

末木先生の註釈には、

「寒時寒殺闍黎」というのは、

「寒い時には寒さに徹底し、暑い時には熱さに徹底せよ、寒中に熱あり、暑中に凉ありの意。寒さ暑さに徹底すれば、並みの寒暑は苦にならず、避けるに及ばぬということ。」

と書かれてあり、更に、

「寒暑を生死の悩み、煩悩と見なすこともできる。

「殺」は、動詞の後について、その程度のはげしさを現わす。 愁殺、痛殺などと同様に、とうていやりきれぬ気分を添える。」

と解説されています。

山田無文老師の『碧巌録提唱』には、

「この殺という字にはコロスという意味はない。

よく世間でも黙殺、笑殺というが、これと同じように意味を強めているのである。

闇黎はここでは和尚というぐらいの意味である。

「寒い時にはナア、寒さになりきってしまうのじゃ。 暑い時にはナア、暑さになりきってしまうのじゃ。 そこが無寒暑のところだ」と。」

と説かれています。

更に無文老師は、

「寒い時には、素っ裸になって水でもかぶらっしゃい。

暑い時には、炎天へ出て野球でもやらっしゃい。そこが無寒暑のところだ」と提唱されています。

朝比奈宗源老師の『碧巌録提唱』にも

「寒時は闇黎を寒殺し、熱時は闇黎を熱殺す。

寒いときは寒い一枚、暑いときは暑い一枚、禅宗では寒さになりきり、暑さになりきれと言います。」

と明確に説かれています。

寒い、寒い、寒いのはイヤだと思っているから、いつまでも寒いのであって、寒いなら寒いになりきれというのです。

また朝比奈老師が、坐禅の仕方について説かれたものにも、

「そうして色々考えたが、ワシの経験ではこの丹田に力を入れるとー臍の下二寸五分の所に力を入れねばいかんが、それも漫然と下腹に力を入れるというのではなく、臍の真正面というか、真下だな、真ん中だ。

それの二寸五分の辺に焦点を定めて、そこへ心を集中する。

そこで無字なら無字を拈提して坐る。

…だから吐く時ムーッと下腹に力を入れる。

そうしてだんだん暫くやって、下腹に本当に力が入ったら呼吸には関係なくならねばいかん。

呼吸のことは、心配せんで、かすかに鼻から吸ったり吐いたりして、グッと公案に成り切っていく。

この成り切るなんていう言葉は禅にしかないかも知れぬ。

つまり外のああとかこうとか思う雑念を全部振り捨ててグッと行くのだ」

と説かれています。

そうして無になりきる修行を始めるのであります。

修行道場に入って、はじめて老師からこの「無字の公案」をいただいて、そのあとはひたすら坐禅しては無になりきり、朝晩に独参といって、老師のところに行っては、老師の前で「無になりきる」のであります。

老師からは、「まだまだだ」「そんな口先だけの無字などなにもならぬ」「もっと肚に力をいれてなりきるのだ」と叱咤激励されるのであります。

こんなことを一年以上は繰り返して修行するのであります。

こんなことをしていったい何になるのかと思われるかもしれません。

あるときに、先代の管長足立大進老師のおそばにいて、こんなことを言われたことがありました。

何の為に無になりきるという修行をするのか、老師は、こんな話をなされました。

なんの話をしていた時のことかは覚えていないのですが、こんなことを言われました。

「結局のところは、なりきるしかないのだ。

お身内を亡くして、悲しみに暮れている人のところに言って、いったいどんな言葉をかけてあげることができようか。

その場に行ったら、その人の悲しみになりきって、こちらも涙を流して悲しむしかない。

出来ることといえば、なりきるだけだ。

慰めようとか、いやしてあげようとか思うことはない」

と仰ったのでした。

相手の悲しみになりきる、言葉では簡単ですが容易ではありません。

容易ではないことを実感させられたのは、私も東日本大震災の三回忌で、被災地で法話をさせてもらった時でありました。

あれほど苦しかった法話は記憶にありません。

被災された方を前にして話をしたのですが、どんな言葉も空しく消えてゆくようで、なりきるといっても容易ではないと痛感したことでした。

外から悲しみを眺めていて、癒そうなどと思っても通用しません。

やはりなりきるしかないのです。

毎日新聞に連載されている海原純子先生の「新・心のサプリ」はいつも楽しみに拝読しています。

一月二一日の連載には、「一筋の希望」という題で書かれていました。

そこにこんなことが書かれていました。

この度の能登の大震災にちなんでの話です。

「支援には4種類があるといわれている。直接支援は、お金や物資や医療などの目に見える支援でこれが大事なことは言うまでもない。

支援には、目に見える直接支援のほかに情報支援もある。ここに行けば必要なものがある、などの情報で、支援や復旧の進捗をまめに公開することが安心につながる。」

と、まずは直接支援と情報支援の二つの支援が書かれています。

それから、

「さらに共感が大きな支援となるのは言うまでもない。

東日本大震災の時、被災された方は、知り合いや友達から「心配している。必要なものを言ってくれれば送るから」などと声をかけてもらったのが力になったと言っていた。

共感支援の他の心理的支援として「援助への期待という支援」がある。

この人がいるから手助けしてくれるだろう、困難な状況を改善してくれるだろう、と思える人物がいることは「一筋の希望の光」になるものだ。」

と書かれています。

共感するというのも大きな支援なのであります。

援助への期待の支援というのもあると学ぶことができました。

かつて東日本大震災の折に、ご尊敬申し上げるとある本山の管長さまは、「自分にはなにも出来ない、ただテレビの前で涙を流しているだけだ」と仰った言葉が印象に残っています。

もうご高齢で、病もお持ちなので、実際に被災地まで行くことはご無理なのでしょう。

しかし、その報道をご覧になって、その悲しみにご自身もなりきってひとつになって涙を流されていたのは、尊いことだと深く感銘を受けたのでした。

こういうことは直接の支援にはならないのかもしれませんが、大きな力にもなると思いだしたのでありました。

 
横田南嶺

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