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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.12.02
今日の言葉

すでに仏であるから仏になりようがない

『無門関』の第九則は「大通智勝」という問題です。

興陽清譲和尚に、ある僧が質問しました。

「大通智勝仏は十劫もの長きにわたり悟りの場に坐しておられたが、仏法は現れず仏道も成就しなかった。これはいかなることでしょう」。

興陽和尚は、「その問いはじつに当を得ている」と答えます。

僧が「既に道場に坐しているのに、どうして仏道を成就することができないのでしょう」と問うと、

興陽和尚は、「仏にならないからだ」と答えたという問答です。

この大通智勝仏という仏様の話は『法華経』に出ています。

大通智勝仏が十劫もの長い間坐禅して身心動きたまわず、微動だにせずに坐っていたけれども而も諸仏の法猶在前せざりき、それほど坐ったけれども、仏さまの法は現れなかったと説かれています。

この法華経の話がもとになっています。

十劫という長い間と言いますが、一劫だけでも大変な長さです。

古来いろんな譬えがありますが、盤石劫と芥子劫という譬えがあります。

盤石劫とは一由旬、今の長さで言えば一辺約7キロメートルほどのとてつもなく大きな岩があるとして、そこへ百年に一度天女が降りてきて、実に軽い羽衣でスッとその石を撫でて、又天に帰ってゆきます。

そうして石が摩滅してもまだ尽きないのが一劫だと言われます。

芥子劫とはこれも一辺七キロメートルほどの大きな枡があって、そこに一杯芥子の実が詰まっています。

百年に一度一粒芥子の実をとって、その枡の芥子の実が無くなっても劫は終わらないというのです。

いずれにしても長い長い時間です。

大通智勝仏がそんな長い間坐禅していたということは何を表しているのでしょうか。

大通智勝仏とは何であるのか、仏とは何であるのか、これを考えなければなりません。

この大通智勝仏の話は我々の宗祖臨済禅師も語録の中で取りあげています。

「大通とは、親しく自己が、あらゆる存在はもともと実体もなく形もないものであると、いかなる時と処においても通底したところをそう言ったのだ。

智勝とは、いかなる境界に在っても迷わず、モノ一つもないところをそう言ったのだ。

仏とは、自己の心が清浄であり、その光明が十方世界に輝きわたるのをそう言ったのだ。

十劫もの間道場に坐禅したというのは、十波羅蜜を行じたこと。

仏法が顕現しなかったというのは、仏はもともと不生であり、法ももともと不滅であるからには、どうしてその上さらに顕現することがあろうか。

仏道を成就できなかったというのは、もとから仏である以上、さらに仏になるはずはないからだ。

古人も言っている、『仏は常に人の世におられて、しかも人の世のものに染まらない』と。」

と説かれています。

訳文は、岩波文庫の『臨済録』から入矢義高先生の現代語訳を引用させてもらいました。

臨済禅師は仏さまとは何であるか、実に端的に説かれています。

それは今此処で話を聞いているもの、それこそが仏さまであるというのです。

今ここで話を聞いているもの、それは何でしょうか。

耳が聞いているのか、脳が聞いているのか、内臓が聞いているのか、どれだと特定出来るものではありません。

ただ一つ言えることは、いのちあればこそ聞いていることが出来ているのです。

いのちの無いものにはいくら耳があろうが脳があろうが聞くことはできません。

そのいのちはいったいどれほどの長さがありましょうか。

五十歳の方でしたら、私は五十何歳ですと答えるかも知れません。

しかしいのちの長さは本当にそれだけでしょうか。

このいのちは決して何十年前に突然ひょこっと生まれたわけではありません。

みな必ず両親から受け継いだいのちです。

何年か前にこしらえたというものではありません。

ではその両親から受け継いだいのちはさらにどこから来たのかさかのぼってゆくときりがありません。

それは今日の学者さんたちももう宇宙の始まりから営々と続いてきたと言わざるを得ないと口をそろえて言います。

その宇宙の始まりを百何十億年というそうです。

とてつもなく長い時間を昔の人は、劫という譬えで表したのでしょう。

大通智勝仏十劫坐道場とは銘々のいのちは限りなく長い間からずっと営々と続いて今日ここに伝わっているということを言うのであります。

それこそ今日の言葉で言えば宇宙の始まり以来ずーっと一度もとぎれずにいまここに連なっているのです。

そのことについて無門和尚は、「老胡の知を許して、老胡の会を許さず」と言っています。

これについて朝比奈宗源老師は、『無門関提唱』のなかで

「人々本具の仏性は、分別や智慧を以てその存在を知ることはできるであろうが、『老胡の知を許して』さてその人と法と一如した三昧の境界に至つては、これが仏法だなどと指摘しうべきものは何もない、『老胡の会を許さず』と、こう見るのが当つていはしまいかと思う。」

と説かれています。

知識として知っているのと、深く三昧に入って体認するのとでは違うということであります。

更に無門和尚は、「凡夫若し知らば、即ち聖人、聖人若し会せば、即ち是れ凡夫」と説いています。

これは悟り了れば未だ悟らざるに同じという境涯を表しています。

修行して聖人となり、また聖人からもとの凡夫に帰るところに深い意味があるのです。

これについても朝比奈老師の提唱には、

「『凡夫若し知らば、即ち聖人』という語も、仏道を学び修行して、こう学んだこう悟ったという有所得底の境界を指し、『聖人若し会せば、即ち是れ凡夫』とは、学びえたところ悟りえたところありとした境界が、さらに深められ高められて、所学も所悟も超えはてた境界を指すと見るべきであろう。

いわゆる悟了同未悟の消息である。

有所得の境界には、人にこえた殊勝さがあり、有難さがあり、これに伴うかすかな高ぶり誇りの念もあるが、無所得の境界には、何等人に変つた殊勝らしさとか有難さなどはない。

たゞありのまゝの世界だ。ところがそのありのまゝが素晴らしい。

飯を食うのも茶を飲むのも、糞をするのも小便するのも、雲の飛び水の流るのも、花が開き葉の落ちるのも、すべてが仏の大神通大光明なのだ。

しかもそれが自分だけでなく、誰も彼もそうなのだ。

だから天子は天子でよし、百姓は百姓でよし、学問のあるもそのまゝ、学問のないもそのまゝ、欠けず剰らず、勿体ないほどの円満具足だ。

このありのまゝの大不思議に比べれば、ちいとやそっとの奇蹟など物の数ではない。」

と説かれています。

大通智勝仏の話も『法華経』では更に長い長い修行を経て仏となるのですが、禅では、本来みな仏であるから、これ以上仏になりようはないという教えになっているのです。

仏法というのも、特別なものが現れるのではなく、日常の営みすべてにすでに現れているということになっているのであります。

 
横田南嶺

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