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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.06.29
今日の言葉

大用国師のこと

昨日六月二十八日は、大用国師、誠拙周樗禅師のご命日でありました。

1745年延享2年のお生まれで、1820年文政3年6月28日にお亡くなりになっています。

白隠禅師がお生まれになったよりも、五九歳もお若い方であります。

白隠禅師が、八三歳でお亡くなりになったときに大用国師は、二四歳でありました。

大用国師は、四国の宇和島のご出身です。

鍛冶屋の生まれで、三歳の時に父に死に別れます。

母はまもなく再婚して、新しい夫との間に子供も出来ます。

そうして七歳で宇和島の佛海寺で出家します。

自らの意志というよりも、やむを得ぬ家庭の事情だったと察せられます。

仏海寺では雛僧として教育を受けて、十六歳になると行脚に出て、本格的な参禅弁道に励みました。

誠拙禅師二十歳の時、横浜の永田の宝林寺東輝庵に隠栖されていた武渓老人こと月船禅師に参じます。

時に月船禅師は六十三歳でした。

そうして月船禅師の元で修行がほぼ完成したころに、大きな転機が訪れます。

当時の円覚寺は、一部の心ある禅僧たちによって、何とか円覚寺にも僧堂を再建し宗風を復古させようという機運が起こっていました。

当時の禅界の状況はというと、江戸時代の中期から後期にかけて沈滞の時期であったと言われます。

円覚寺でも創建当初は山内全体が修行道場でした。

建長寺の開山大覚禅師は、その『法語規則』に「建長寺に住むものは全員昏鐘よりは堂内に詰めよ、堂内に詰めずに寮舎にいるものは罰して寺から追い出せと」厳しく言われているほどなのです。

それが、山内に代々の住持の塔所である塔頭ができて、だんだんと塔頭に住する者達が独自に修行するようになって、本山の修行は形式だけになってきました。

そして江戸期には、寺院の増加に併せて僧侶も増え、宗風が沈滞して、各山内塔頭でそれぞれ修行が疎かになる事態もあったようです。

さてそういう沈滞の気風の中で、九州の古月禅師がでて、禅風を挙揚され、その同じ系統にあたると言われる月船禅師が関東で教化を挙げられました。

白隠禅師も静岡の原の松蔭寺で大いに教化をなされていました。

沈滞の気風を一掃しようという動きは地方からでした。

本山をすべて元の僧堂にするのは無理だとしてもせめて、舎利殿開山堂をいただく円覚寺一番の聖地である正続院だけでも僧堂として伝統の修行を復活させようと努力していました。

そこでもっとも大切なのはその指導者を得ることです。

僧堂を復興して宗風を挽回する、その任に堪える指導者が何としてでも必要でした。

その白羽の矢が立ったのが、当時永田の宝林寺内の東輝庵にいた青年僧誠拙その人でした。

当時まだ弱冠二十六歳、その若者に円覚寺の将来が託されました。

当時衰退していた本山を再興するのは、若者にとって容易なことではありませんでした。

その苦労ぶりは、『禅文化』六〇号に朝比奈宗源老師が書かれています。

「それからの誠拙さんは、すすんでその堕落しきった坊さん達の中身にとけこみ、賭けごとなどをしている時でさえ席をはずさず、煙草盆の火を入れてやったり茶をくんでやったりして和光同塵し、徐々に一山の風規を改め、三十年もの長い間に、伽藍の修理や再建、僧堂の創建、規矩の制定等々から、その門下に優秀の人材を多数打出し、開山仏光国師の再来と呼ばれ…」と記されている通りであります。

そうしてその逆風の中をひたすら坐禅指導に励み一生涯を僧堂のために尽くされました。

かくして円覚寺の僧堂を復興されました。

これだけでも一大業績ですが、大用国師は円覚寺だけにとどまらずに、六十二歳の時に八王子の広園寺にも僧堂を開単されました。

六十四歳で僧堂師家をご自分の弟子の清蔭禅師に譲られ一時山内の伝宗庵に隠居され、更に横浜金井の玉泉寺に隠居しようとされました。

ところが隠居する間もなく、明くる六十五歳で京都相国寺の大会に拝請され師家をつとめて『夢窓国師語録』を提唱、誠拙の名は天下に広まり、六十九歳で天龍寺の大会も師家をつとめ、天龍寺にも僧堂の基礎を築かれました。

さらに最晩年の七十六歳で再び上洛され、今日の相国寺僧堂を開単、今も相国寺僧堂にはその時の禅堂が残っています。

ところが、その時病に倒れ、心華院という今の大光明寺でご遷化なされます。

文字通り僧堂の為に捧げた御一生でした。

お釈迦様が伝道布教の旅の途中でなくなった事を思い起こさせます。

相国寺心華院で津送、円覚寺にはご遺骨になって帰山され、今の正伝庵の塔所に埋骨されました。

僧堂の開単だけでも円覚寺と広園寺、天龍寺と相国寺においてなされました。

ほかに結制大会は、南禅寺や建長寺などにおいてもなされました。

遠くは故郷である宇和島の仏海寺や大乗寺においても祖録の提唱がなされ、紀州由良の興国寺においても開山大遠諱を勤めておられます。 

「大用国師」の諡号は大正八年に追贈されています。
 
今日の円覚寺があるのは、ひとえに大用国師のおかげなのであります。

毎年、六月二十八日、誠拙禅師大用国師のご功績をしのびながらご命日の法要を務めています。

 
横田南嶺

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