逆境の中でこそ
二十九歳の時でした。
二年余り修行されて三一歳の時に日本に帰りました。
その帰りにタイの国を訪ねようとされました。
そうしてバンコクのメナム河の畔で、停泊していました。
宗演老師は、資金も十分でなく、デッキパッセンジャーと言いますから、船室にも入ることが出来ない状況でした。
そんな夕暮れの頃、あたりから真っ黒な雲がたちこめ、雨が降るかと思いながらも降らず、風が吹こうにも吹かないという中でした。
時に無数の蚊の群れが襲ってきました。
手で払えば足に集まり、足を払えば手にむらがるのでした。
どうにも逃げ場がありません。
そんな中で、宗演老師は、自らの腕を断ちきって道を求めた二祖慧可大師や、刑に望んで宝蔵論を著した肇法師を思い出し、さらに下痢に苦しみながらも道を求めた蒙山禅師のことを思い起こしました。
そうして、自らの体をこの蚊たちの為に思いっきり施してあげようと決意して素っ裸になって甲板の上で坐ったのでした。
夜を徹して坐り抜いて、明け方になって気がつくと、自分のまわりに真っ赤なグミの実が落ちているように見えました。
蚊がお腹いっぱいに血を吸って死んでいたのでありました。
こんな話を毎年、六月の摂心の時にしています。
宗演老師が思い起こした古人の中で、下痢に苦しみながらも坐禅修行されたのが、蒙山禅師であります。
蒙山禅師のことは『禅関策進』に詳しく書かれています。
蒙山禅師は、二十歳の頃に、この仏道を学んで悟りを開く道のあることを知って、三十二歳までに十七、八名の優れた禅師について修行をしていました。
更に無字の公案に取り組んでおられました。
一心不乱に修行をしていて、ある程度の心境が開けました。
お釈迦様が花を拈じて迦葉尊者が微笑したという端的を会得することができたといいます。
その頃、ある方から、海印三昧に入ることを心がけてそれ以外のことに心を煩わせるなと教えられてその教えに従っていました。
海印三昧というのは、「釈迦が華厳経を説く時に入った禅定」のことで、「静かな海面に四方一切のものが映るように、煩悩や妄想のない仏の心鏡に、万象すべてが映ること」を言います。
その教えを受けて二年間を過ごしました。
景定五年六月、四川省の重慶府にいた時に、なんと昼夜百回もの下痢をわずらい、病勢はげしく死に瀕して、全く力がなくなってしまいました。
今まで修行してきた海印三昧も役に立ちません。
それまで修行して得たつもりだった体験も役に立たないのです。
体も動くことができず、ただもう死を覚悟するようになりました。
そして今まで自分がした行為や他からはたらきかけられた縁によって経験したいろいろの場面が、まるで走馬灯のように一度にどっとあらわれてきました。
そこで強いて気をとりなおして、自分が死んだ後のことを人に頼んでおきした。
そして高く坐蒲団を重ね、一炉の香をたいて、おもむろに起ち上り、きちんと坐りなおし、仏法僧の三宝と龍天護法の善神に黙禱し、これまでおかしたいろいろの悪い行を懺悔したうえで誓いました。
「もしこのまま寿命がつきるならば、願わくは大智慧の力をうけ、それによって正念に住し、 来世は因縁のある家に生まれて、早々に出家して仏道を求めよう。」
と願います。
しかし「もし病気がなおったら、すぐに世俗を棄てて出家して僧となり、早く悟りを得て、広く後輩を導き悟りを得させよう」という願いを立てました。
この誓願を立ててから、「無」の公案ととりくんで坐ったのでした。
すると、いくらもたたないうちに、五臓六腑が三、四回動いたが、そんなことには構わずに坐りました。
しばらくすると、自分の体のあることがわからなくなりました。
それでもただ無字の公案にだけにとりくんでいました。
晩になって起ち上ろうとすると、病気が半ばよくなっていたのでした。
しかしまた坐禅して明け方になると、もろもろの病気がみなきえてなくなり、身体も精神も軽くやすらかになっていたのでした。
そんな体験を経て、蒙山禅師は願った通り出家したのでした。
そこから更に多くの禅僧たちに師事して、公案の修行を重ねていったのでした。
時には、全身に瘡が出来てしまうという病を得たこともありました。
命を捨てる覚悟で坐禅修行して、自然に道力を得ることが出きたと言います。
更に坐禅中に無字の公案に取り組んでいて、上座の僧が入って来て焼香したのですが、その香合に物が当たって音がした途端に、本当の自己に目覚めることができたと語っています。
趙州和尚に親しくお目にかかることができたのでした。
のちに蒙山禅師は、重慶での病気の体験を経なかったら、おそらく一生を無駄にしていただろうと語っています。
元気な時にだけ修行するのではなく、どうにもならないときに、そのどうにもならない中で、覚悟して修行することもあるのです。
それによって、心境が開けることもあります。
宗演老師もそんな話を思い起こして、蚊の群れの中で坐り抜いたのでした。
毎年六月の摂心の頃に修行僧たちと学びながら、大いに自らを反省するのであります。
横田南嶺