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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.11.05
今日の言葉

風に逆らっても

先日京都の妙心寺で、講演をさせてもらいました。

妙心寺の微笑会の総会で講演をさせてもらったのでした。

この講演は、妙心寺さまから「鎌倉 禅の淵源」という題をいただいていましたので、鎌倉時代に禅が伝わった頃、京都と鎌倉の禅について話をさせてもらったのでした。

日本に伝わった禅は、二十四流と言われています。

多く数えると、四十六あるいは五十九とも言われていますが、そのお弟子達が日本において教えを弘めたのは二十四になるのであります。

二十四もの祖師が、それぞれ中国から禅を伝えてくださったのでした。

その最初が栄西禅師であります。

講演は一時間という時間の制限もあって、二十四流のうちでも十一伝まで話をしました。

区切りの良いところで十伝までと思いますが、それはできないのです。

もし十伝までであれば、今日日本の禅は伝わっていなかったかもしれないのです。

二十四流の内に、曹洞宗は三つの流れのみで、そのほか二十一流は臨済の禅であります。

曹洞宗は、栄西禅師の次に道元禅師が第二伝として南宋から如淨禅師より受け継がれた禅を伝えたのでした。

臨済の禅は、その後多くの禅僧たちによって伝えられますが、その初伝が栄西禅師であった為に栄西禅師が学校の教科書にも載っているのであります。

しかしながら、栄西禅師の伝えた禅の教えは途絶えてしまい、二十四流の中でも臨済宗は、第十一伝の南浦紹明禅師が伝えた系統が、大灯国師、無相大師と伝わって更に江戸時代にその系統から白隠禅師がお出になって今日まで伝わっているのであります。

栄西禅師は、『広辞苑』にもその名が出ています。

『広辞苑』によれば、

「臨済宗 栄西禅師(ヨウサイとも)

日本臨済宗の祖。

号は明庵。備中の人。

比叡山で学び台密に長ずる。

1168年(仁安3)・87年(文治3)と2度入宋、虚庵懐敞(きあんえしょう)に臨済禅を受け、博多に聖福寺、京都に建仁寺を建立して禅宗の定着に貢献した。

著「興禅護国論」。また、宋から茶種をもたらして栽培し、「喫茶養生記」を著す。(1141~1215)」

と簡潔にご生涯をまとめてくださっています。

岡山の吉備津宮の神官の子として生まれたと伝えられています。

十一歳で、備中の安養寺で仏教の学問を学び、十四歳で比叡山で出家して天台や密教の教えを学びました。

二十八歳の時と、四十七歳の時と二度にわたって宋の国に渡っています。

当時二回も宋に渡るということは極めて稀であります。

一回目は五ヶ月ほどの滞在でしたが、二度目には五年ほど滞在してそこで天台山万年寺に行って臨済宗黄竜派の虚庵懐敝(きあんえしょう)禅師に師事し、印可を得て帰国しました。

帰国後は九州地方で活動されていました。

五十四歳の時に、すでに日本で大きな勢力だった天台宗比叡山からの激しい非難を受けて朝廷から禅宗停止の命を受けることになりました。

そんな中でも、博多にわが国最初の禅寺である聖福寺(しょうふくじ)を開いたのが、五十五歳の時でした。

更に五十八歳で『興禅護国論』という書物を著して、禅の主旨を明らかにして、決して天台の教学にも背くものではないことを示しました。

五十九歳の時に鎌倉に行き、六十歳の時には、源頼朝公の一周忌の法要の導師を勤めています。

そして鎌倉で寿福寺の開山になっています。

しかしながら、鎌倉ではまだ禅の教えを弘めるというところまではゆきませんでした。

密教の僧としても名高い栄西禅師は、大法要の導師として招かれた趣がございました。

更に六十二歳で京都に建仁寺を開創されました。

源頼家公が開基であります。

京都の地に禅寺を建立しましたが、禅と天台、密教を学ぶ寺として建立されました。

これは比叡山への配慮もあってのこととも言われています。

禅だけでなく、天台や密教も兼ねて学ぶので兼修禅とも言われます。

本格的に禅を専門に修行する寺が建立されるのは、鎌倉の建長寺でありました。

こちらは、二十四流の中の第五伝蘭渓道隆、大覚禅師のご開山であります。

鎌倉時代に日本に禅が伝わった時には、二つの流れがありました。

ひとつは日本人が中国に渡って、禅を修めて日本に伝えた場合であり、もうひとつは中国の僧が、日本に来て禅を伝えた場合であります。

第十伝までを見ますと、日本人で中国から禅を伝えたのが五人であり、中国の方で日本に来て禅を伝えたのが五人となっています。

とりわけ鎌倉では大覚禅師や円覚寺の仏光国師など中国から日本に見えた禅僧が活躍されていました。

既存の仏教の勢力が大きかった京都の地では、なかなか当時としては新興宗教であった禅は難しかったのだと察します。

『元亨釈書』には、元久二年一二〇五年春三月に都が暴風に見舞われたことについて書かれています。

そのときになんと都の人々は口々に噂して、

「この頃、栄西師が新たに唱導している禅宗の僧の衣服は、袖が大きく長い。

彼らが行道することで、その大きな衣と大きな袖とが風を起こし、今京都を襲っている災害となったのだ。その原因は栄西にあるのに違いない」

ということが書かれているのであります。

そんなことまで言われるほど攻撃されていたのでした。

しかしながら、『法句経』に、

「花の香りは風に逆らっては進んで行かない︒

栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである︒

しかし徳のある人の香りは︑風に逆らっても進んで行く︒

徳のある人はすべての方向に薫る︒」

とありますように、栄西禅師の伝えた禅は、更に多くの祖師方によって伝えられて今や京都や鎌倉のみならず世界に香っているのであります。

栄西禅師には、『法句経』の八一番に

「一かかえほどの盤石風にゆらぐことなし︒

かくのごとく 心あるものは︑そしりとほまれの中に 心うごくことなし︒」

とありますように、風に吹かれても動じない信念を禅の修行によって培っていたのだと察します。

 
横田南嶺

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