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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.11.01
今日の言葉

真の宗教とは – 釈宗演老師を思う –

本日は十一月一日です。

早くも十一月を迎えます。

朝夕ひんやりするようになってきました。

十一月一日は、釈宗演老師のご命日であります。

釈宗演老師は、『広辞苑』にもその名が載せられています。

『広辞苑』を見ますと、

「臨済宗の僧。号は洪岳。福井県の人。妙心寺の越渓、円覚寺の今北洪川(1816~1892)などに就いて参禅、近代的な禅の確立に努めた。円覚寺・建長寺管長、京都臨済宗大学長。(1859~1919)」と記されています。

「近代的な禅の確立」とありますように、古い体制を打破し、近代にふさわしい活躍された禅僧であったのであります。

生まれたのは、安政六年であり、あたかも安政の大獄の最中でした。

徳川幕府が終わりを告げ、明治新政府が開かれようとする激動の時代に生を享けられたのです。

幼少から京都の妙心寺で修行を始め、その後建仁寺でも修行され、二十歳の頃に鎌倉の円覚寺に来て、当寺の管長であった今北洪川老師に師事されました。

普通であれば、十年ないしは二十年もかかろうかという伝統の禅の修行を、わずか五年ほどで仕上げられ、二十五歳には「老師」と呼ばれるようになり、既に今北洪川老師から、将来の円覚寺を託されるようになられました。

これだけでも、如何に俊英なる禅僧であるか窺い知れますが、宗演老師は単にそれだけで満足されなかったのでありました。

伝統の禅の修行を終えた後、二十七歳で慶應義塾に入って、英語を学ばれました。

今でこそ大学に入ることは、驚くべきことでもありませんが、この時代に慶應義塾に入ることは、容易なことではありません。

今北洪川老師も慶應に行くことには猛反対されているように、既に当時の常識を打破した行動でありました。

そこで福沢諭吉先生にも出会い親交が深まったのです。

慶應で英語を学び、当時の世界の最先端の知識に触れた宗演老師は、更にセイロン(現スリランカ)に行って仏教の原典を学ぼうとされました。

このセイロン行きも、福沢諭吉先生の勧めがあったようであります。

今の時代とは違って、この時代にセイロンに行って学ぶことは、まさしく命がけでありました。

宗演老師のことを学んで驚かされるのは、その並外れた行動力であります。

尋常一般の範疇を高く超えた非凡の力量を具えていることを、禅では「越格」と称していますが、宗演老師はまさに越格の禅僧でありました。

仏教の原典を学びたいと思い、旅立ったセイロンでしたが、宗演老師が現地で目の当たりにしたものは、当時イギリスの植民地になっていた現地の人の悲惨な有様でありました。

もちろんのこと、仏教の原典に用いられるパーリ語も習得され、仏陀以来の戒律を守られる僧侶の姿にはいたく感動するのでありましたが、英国の植民地となって苦しむ人々の姿には愕然としてしまいました。

主権を持たない国がどんな目に遭うかを知ることとなったのです。

また往復の船に乗っていても、東洋人であるからというだけで、不当な差別待遇を受けました。

満足な食事すら与えられなかったりしたのであります。

実に宗演老師は、セイロンに行く体験を通して、今世界において日本やアジアの国がどのような状況下にあるかという時代認識を新たにすることができたのでありました。

日本に帰って間もなく、今北洪川老師は亡くなり、宗演老師はわずか数え年三十四歳で円覚寺の管長になられました。

しかし、宗演老師の危機意識は消えるどころか、却って深まっています。

当時の日本においては、明治維新のあと廃仏毀釈があって、仏教教団は大きな打撃を受けていました。

近代国家へ向けて富国強兵へと突き進む中で、人々の仏教への関心は一層薄らいでいるのでした。

危機意識は今北洪川老師も既に持っておられて、円覚寺にお入りになるとすぐに、広く一般の人達にも坐禅の門戸を開放し、居士林を開き、東京から参禅に来る者もいたのでした。その中に後の鈴木大拙もいたのであります。

しかし、それだけでは十分とは言えない、何かをしなければならないと宗演老師は思っていたのであろうと察せられます。

宗演老師が円覚寺の管長に就任された翌年、シカゴで万国宗教会議が催されました。

この会議は十七日間にも及び、六千人という多くの方が参加された大会議でありました。

ちょうど宗演老師がお生まれになった年に、西洋ではダーウィンの『進化論』が発表されています。

近代科学が発達するにつれて、この世界は神が造ったものだというキリスト教信仰が揺らぎ始めていました。

万国宗教会議とは、そんな中、これからの宗教はどうあるべきか、危機感を抱いたアメリカによって開かれたものでありました。

日本の仏教界にも参加の依頼があったのですが、当時の仏教界は疲弊していて、キリスト教の国に行っても仏教の主張は理解されがたく、却ってキリスト教に呑みこまれてしまうと考え、出席には積極的ではありませんでした。

しかし、そのような中であるからこそ、出るべきだと考えたのが宗演老師でありました。宗演老師をはじめ四名の僧侶がシカゴの宗教会議に出席されたのです。

このシカゴでの宗演老師の演説は大成功であり、この演説を聞いたポール・ケーラス博士が深く感銘を受けて、宗演老師の帰国後に、鈴木大拙が渡米することとなりました。

シカゴでの演説は二回行われました。一回目は、『仏教の要旨並びに因果法』と題して、仏陀の教えの基本は因果の法であると説かれました

更に宗演老師は、『戦ふに代ふるに和を以てす』というもう一つの演説をなされています。

当時アジア諸国を植民地支配している西欧の人達を目の前にして、宗演老師は戦争の愚かさと、真の平和を実現するものは何かを説かれたのでした。

一部を紹介します。

「戦争が私達に何をもたらしてくれるというのでしょう?

何も、もたらしてはくれません。

戦争とは、弱い者が、強い者に虐げられることに過ぎないのです。

戦争とは、兄弟同士が争い、血を流し合うことに他ならないのです。

戦争とは、強い者が、結局何も得るものがない一方で、弱い者が、すべてを失うことなのです」と説かれ、更に、どうすれば平和を実現できるかについて、

「私達の願いは、どのようにすれば、本当にかなえられるのでしょうか?それを助けてくれるのが、真の宗教なのです。

真の宗教が、慈悲と寛容の源なのです。

真の宗教の本分は、普遍的な人類愛と恒久の平和という崇高な願いの実現にあるといえるのではないでしょうか。

そして、そのために、私達が中心となり、原動力とならねばならないのではないでしょうか」と喝破されています。

「そのためにも、人種の違いで、差別があってはいけません。

…思想や信条の違いで、差別があってはいけません。

信仰や宗派の違いで、差別があってはいけません」と述べて、キリスト教ともお互いに認め合い手を取り合うことを訴えられているのです。(訳文は『禅文化』一六八号、「戦争という手段に訴える前に」安永祖堂老師訳による)
 
この時代の仏教者として既に「人類愛」という言葉を使われた事に着目します。

視野の広い宗演老師のお心がよく現れています。

そして世界の平和を実現する「真の宗教」の必要なることを説かれたのでありました。
 
シカゴから帰国された宗演老師は国内でも大いに活躍され、四十六歳で管長を辞され、再度渡米してはルーズベルト大統領とも会見して平和について語り会っているのでした。

宗演老師がお亡くなりになって百年以上が経ちますが、いまだに世界で愚かな戦争はやみません。

こういう時であるからこそ、真の平和を実現する、真の宗教が必要とされるのであります。

お互いに真の宗教とは何か考えるときであります。

 
横田南嶺

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