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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.05.31
今日の言葉

坐禅の要領

戦後早くから、円覚寺に坐禅に通っていらっしゃった方がいました。

先年お亡くなりになってしまいましたが、熱心に坐禅に打ち込まれていました。

朝比奈宗源老師について坐禅を始めて、足立大進老師にもついて坐禅され、更に私の代になっても熱心に坐禅をされていました。

その方が、朝比奈宗源老師が坐禅について説かれたことを書き写されたものがあります。

私も修行僧達に坐禅の仕方を説く時によく使わせてもらっています。

まず朝比奈宗源老師は、坐禅を始める心構えを次のように示されています。

「人間は誰でも仏と変わらぬ仏心を備えているのだ。

これをはっきりと信じ、言わば此処に井戸を掘れば必ず井戸が出来、水が出るという風に、信じ切らねば井戸は掘れぬ。

掘れば出ると思うから骨も折れる。

だから我々の修行もそれと同じだ。仏心があるとは有り難いことだと、こう思わねばだめだ。」

人は皆仏心を具えています。

みんな生まれながらの仏心をいただいているのであります。

私が今日まで禅の修行を続けてきて、一番ありがたいなと思うことは、この「人はみな、はじめから仏心を持っているのだ」と教わることです。

仏心というのは、努力して獲得するものではないのです。

盤珪禅師は「不生」と仰いましたが、もともとはじめからあるものなのです。

たとえば、家の中に素晴らしい宝の蔵があるのに、そのことに気がついていないようなものだというのです。

だから禅の修行というのは、宝を外から得るのではなく、自分の内にある宝を見出すことだというのです。

獲得するものだと、得ることの出来る人、出来ない人が生じますが、目的とすべき宝は、最初からあるものだから、失敗のしようがない教えなのです。

ただ、自分がそのことを自覚できるかどうかの問題なのです。

だから安心して修行が出来ます。つまり禅の修行とは、元来決して落ちこぼれのない道なのです。

そのあとに朝比奈老師は

「そうしといて、井戸を掘るには井戸を掘る方法がある。道具もいる。

努力もいる。坐禅も亦然りだ。

やればキッと出来る。どうすればよいかということを考えねばならぬ。

それには何時も言うように坐相に気を付けることだ。

姿勢をよくし、腰を立てて、息を静かに調えて、深く吸ったり、吐いたりして、丹田にグッと力を入れる修行をせねばいかん。

腰を立てないとどんなにしても力が入らん。

冗談みたいに言うが、尻の骨が曲がって、尻が前の方に向いてオナラをすると、オナラが前に出るような腰つきでは絶対いかん。

グッと起こしてお尻の穴が後ろを向いているようにして、そうして下腹を前に出して、グッとーこうして坐る。(老師、体を左右前後に揺振して独楽がとろむように坐を定める。)

そうして色々考えたが、ワシの経験ではこの丹田に力を入れるとー臍の下二寸五分の所に力を入れねばいかんが、それも漫然と下腹に力を入れるというのではなく、臍の真正面というか、真下だな、真ん中だ。

それの二寸五分の辺に焦点を定めて、そこへ心を集中する。そこで無字なら無字を拈提して坐る。

息はーよくこういう質問をする人があるから言うが、息は吸うときに力を入れるか、吐くときに力を入れるかとよく聞く人がある。

どうもこれも色々やってみたが、経験から言うと、吸うときは胸部に、つまり肺に息が入るのだから横隔膜が下に行くが、胸を広げるときだから、吐くとき鼻から静かに息を出しながら、こうして吐きながら静かに下腹に充たした方が、どうも良いようだ。

つまり何だな、上をふくらましたときグッと力を入れると、うっかりすると胃下垂というような病気になる。

だから吐く時ムーッと下腹に力を入れる。そうしてだんだん暫くやって、下腹に本当に力が入ったら呼吸には関係なくならねばいかん。

呼吸のことは、心配せんで、かすかに鼻から吸ったり吐いたりして、グッと公案に成り切っていく。

この成り切るなんていう言葉は禅にしかないかも知れぬ。

つまり外のああとかこうとか思う雑念を全部振り捨ててグッと行くのだ。」

と説かれています。

「グッと坐る」とか、「グッといくのだ」という独特の表現なのですが、いわんとするところは伝わってきます。

丹田に狙いを定めて意識を集中するというのも、はじめは難しいかもしれませんが、とにかく意識を向けてみるのです。

はじめは大きな範囲を想定して、そこからだんだんと丹田の一点へを小さく、小さく集中するのです。

呼吸についても数息観を薦めておられます。

次のように説かれています。

「舌べらは上顎につけ、眼は閉じない。

閉じると寝たり、妄念が出やすい。

必ず半眼にして視線を前にし、臍下二寸五分くらいのところに力を入れる。そして息を数えるのがよろしい。

息を一つから吸って、吐いて“ヒトーッ”として、一から十になったら亦一つから始める。

ところが数をよむと言ったら何でもないようだか、我々の心というものは、直にものを考える癖がついている。

息をはっきり、はっきり数えることは容易ではない。

三つとか四つ数えると、もうどこかに行ってしまう。

又妄念が出たと、一々気にかけるのもいけない。

出たと思ったら、すうっとだまって数を続けることだ。

臍の下二寸五分位、丹田といいますが、臍下丹田に力を入れる。

これが一番妄念が出ない。

この姿勢が崩れたら、いくらいらいらいしても駄目で、いらいらいするだけ妄念が出ます。

これを数息観といいまして、最も基本的であり、且つ大切な坐禅です。」

というものです。

数息は、古くから伝わっている心の調え方のひとつであります。

更に朝比奈老師は、

「坐禅をしている姿勢を見れば、今この人は妄想をかわいていないで、数息観が本当に続けているか、いないか、体の様子で分かる。

恐ろしいくらい、体と心が一つです。そういうものです。

みなさん、悟り悟りというから騒ぐが、悟ろうと思ったら、もはや坐禅じゃない。

悟ろうとも悟らまいとも思わず、ただ数を数える。

“只”です。

只坐る。木偶みたいに。

坐禅はこの只の世界です。

そうした絶対の世界に自然に触れる。

つまりこれが仏心です。

その仏心に自然に触れるためにする修行であります。」

と説かれています。

仏心に触れるのです。

仏心が何かわかるというものではありません。

朝比奈老師は、「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る」と説かれました。

大いなる仏心の中に抱かれてあることに身を委ねて坐るのであります。

 
横田南嶺

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