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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.03.06
今日の言葉

どうして苦しむのか – 迷いの構造 –

お釈迦さまは何を悟ったのかというのは、古来問題になるところであります。

いろんな説がありますが、ひとつには、十二因縁を悟られたのだとも言われます。

お釈迦さまの悟りの体験そのものは言葉にならないものでありましょうが、それを人に伝えるのに、様々な表現になったということです。

十二因縁というのは、十二もあるので、難しいと思われるところがあります。

しかし、これは、私たちがどうのようにして迷いや苦しみを生じるのかという経過を明らかにしたものだと思えば、理解しやすいものであります。

竹村牧男先生の『般若心経を読みとく』(角川ソフィア文庫)から十二因縁の解説を引用してみます。

まず第一に無明があります。根本的無知です。

次に行があります。無明に基づく行為およびその影響力(業)です。

三番目に識があって、母胎に受生した瞬間です。

四番目に名色、器官が形成される前の胎児(受生後四週間余)をいいます。

五番目に六入、器官が形成された後の胎児のことです。

六番目の触が、母胎からの出生(以後二、三歳まで)です。

七番目には受、感情を伴う認識の生起する頃(四、五歳~十二、三歳)です。

八番目には愛、欲望を伴う認識の生起する頃(十四、五歳以後)。

九番目には取、激しい執著を伴う認識の生起する頃(青年期以後)。

十番目には有、愛・取によって作られた業のこと。未来の果を約束する。

十一番目には生、未来にある所に受生する瞬間。

十二番目には老死、生以後死ぬまでです。

一番目と二番目が過去世として、三番目から十番目までが現在世、十一と十二が未来世なのです。

岩波書店の『仏教辞典』には、

1)無明(むみょう)(無知)、
2)行(ぎょう)(潜在的形成力)、
3)識(しき)(識別作用)、
4)名色(みょうしき)(名称と形態)、
5)六処(ろくしょ)(六入(ろくにゅう)。六つの領域、眼耳鼻舌身意の6 感官)、
6)触(そく)(接触)、
7)受(じゅ)(感受作用)、
8)愛(あい)(渇愛(かつあい)、妄執(もうじゅう))、
9)取(しゅ)(執着(しゅうじゃく))、
10)有(う)(生存)、
11)生(しょう)(生まれること)、
12)老死(ろうし)(老い死にゆくこと)、

と説明されています。

更に

「説一切有部(せついっさいうぶ)では、
1)、2)を過去世の因、
3)- 7)を現在世の果、
8)- 10)を現在世の因、
11)、12)を未来世の果とみて、胎生(たいせい)学的に解釈する。

<無明>は迷いの根本。

<行>は<無明>から次の<識>を起こす働き。

<識>は受胎の初めの一念。

<名色>は母胎の中で心の働きと身体とが発育する段階。

<六処>は6 感官が備わって、母胎から出ようとしている段階。

<触>は2~3 歳ごろで、苦楽を識別することはないが、物に触れる段階。

<受>は6~7 歳ごろで苦楽を識別して感受できるようになる段階。

<愛>は14~15 歳以後、欲がわいてきて苦を避け楽を求めたいと思う段階。

<取>は自分の欲するものに執着すること。

<有>(生存)は<愛><取>の段階とともに未来の果が定まる段階。

さらに<生><老死>は未来の果というように、三世と二重の因果関係になっているので、<三世両重(さんぜりょうじゅう)の因果>という。」

と解説があります。

このように過去現在未来と三世にわたって観察するのです。

<無明>によって<行>が生じるという関係性を観察し、<行>より次第して<生><老死>という苦が成立することを知るのを「順観」と言います。

そしてまた<無明>が消滅すれば<行>も消滅するという観察を逆観と言います。

椎尾弁匡僧正は、『仏教の要領』のなかで、十二因縁を達意的に、

「分からずに(無明)流れ(行)を認め(識)るとき、そこには主観客観に対立(名)が現れる。そこに外界(六処)ありとし、それを経験(触)する。そこに苦楽(受)ありて愛憎(愛)する。そこで取捨(取)し行為力(有)により今の存在(生)となって次に移る(老死)」
と表現されています。

十二はなかなか長いので覚えにくいのですが、要は次の六つにまとめられます。

無明(無知)
愛 (渇愛、根源的欲望)
取 (執着)
有 (迷いの存在)
生 (生まれ)
老死 (苦)

の六つであります。

この六つは、奈良康明先生の『般若心経講義』を参考にさせてもらいました。

なにも分からない無知から、目に触れたもの、耳に触れたものに、欲望を起こして、それが更に執着になり、迷いの存在となって、生を営み、やがて老いて死ぬのです。

一番肝心なのは、私たちが迷いや苦しみを引き起こす、その一番の原因は、無明、無知であるということです。

根本は無明なのです。

仏陀は、「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。」と『スッタニパータ』(728)において説いています。

全くの無知なる状態から、何かしらの力がはたらいて意識が生まれます。

その何かしらの力が行であります。

その盲目的な意識がこの体にはたらくようになって、六根という目や耳や鼻や舌や身体や精神の上において活動するようになります。

すると外の世界に触れて、自分にとって何か心地好い、好ましいものには愛着を生じます。

愛着を起こすと更に自分のものにしたくなります。

そうして自分のものという概念が生まれます。

自分のものを集めて大事にし、さらにもっと増やしたいという生き方が出来てきます。

そのように生きて活動して、自分の思うままにゆくと悦び、思うままにならぬと苦悩するという生涯を送ります。

しかし、やがては老い衰え、そして最後はすべてを手放し、死を迎えます。

一切は無常であり、自分という孤立したものはないにも関わらず、自分という独立したものがあると思い、何か触れたものを自分のものにしたい、もっと増やしたいという思いによって苦しみを造り出すのです。

苦しみの原因は、無常であることを知らない、自分という孤立したものはないことを知らない、無知にあります。

これが無明です。

まずは、どのようにして、私たちが苦しみを造り出しているのかを、よく観察します。それが十二因縁を観察するという修行であります。

 
横田南嶺

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