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臨済宗大本山 円覚寺

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2022.01.25
今日の言葉

聖と俗

宗教というのは、聖なるものへの畏怖であると教わった記憶があります。

学生時代のことであります。

遠い昔のことですから、確かかどうか分かりません。

たしか、この聖なるものをヌミノーゼと教わった記憶があるのです。

聖なるものと俗なるものを分けて、俗なるものが、聖なるものを畏れるというのが、宗教のもともとの意味だということでしょう。

聖なるものと俗なるものを分けて、その区分を結界というのであります。

「結界」を『広辞苑』で調べてみると、

結界
「①〔仏〕修行や修法のために一定区域を限ること。また、その区域に仏道修行の障害となるものの入ることを許さないこと。

②寺院の内陣と外陣との間、または外陣中に僧俗の座席を分かつために設けた木柵。
③帳場格子。」

という解説があります。

更に岩波書店の『仏教辞典』で調べてみると、

「結界」は、

「教団の僧尼の秩序や聖性を維持するため、ある一定の区域を限ること。

その標識として石や木などが使われ、石の場合は<結界石>という。」

と説明されています。

たしかに聖なるものと俗なるものとを区分して考えるとわかりやすいものであります。

ほかの宗派の方と話していると、いろんな違いに気がつかされることがあります。
たとえば修行道場などの場合、禅の修行であれば、典座といってご飯を炊くことも、畑を耕すことも、手洗いの掃除をすることも皆修行なのであります。

坐禅堂に入って法衣をつけて坐禅をするのも、台所でご飯を炊いているのも同じ修行であるとして大事にしています。

ところが、宗派によりますと、ご飯を作るのは専門のまかないの方にお願いして、それとは別に修行は修行であるとしているところもあるようなのです。

どちらがいいという訳ではないのですが、こういうところに禅の特色があると思ったのです。

禅というのは元来結界を設けない教えなのだと思います。

どこにいても、何をしていてもそれが修行なのです。

そういうことを平常心是れ道ともいうのであります。

趙州和尚にある僧が問いました。

道とはいかなるものでしょうかと。

趙州和尚は、道なら垣の外にあるとこたえます。

僧が、そんな話ではありませんと言います。

ではどんな道だと問う趙州和尚に、僧は「大道です」とこたえます。

趙州和尚は、大道は都の長安に通じているとこたえました。

垣根の外にある道というと、誰でも通るもので、牛や馬も通ります。

犬が小便をしているような道であります。

聖と俗でいえば、俗なるものでしょう。

それがそのまま長安に通じるのです。

長安は聖なるものといっていいでしょう。

この俗なる道がそのまま聖なるものへ通じると受け止めたいのであります。

大道もなにもみんな長安のなかなのです。

唐代の禅僧薬山禅師は、農家の牛小屋で坐禅していたといいます。

農家の牛小屋ですから、これは俗なるところであります。

結界をつくれば、結界の外にあたるでしょう。

そこに聖なる坐禅をしていたというのですから、聖なるものと俗なるものとの結界を超えたのが禅だと思うのであります。

また禅僧たちが、労働を始めたこともそうであります。

畑を耕し始めたのです。

畑を耕すことなどは、仏教の戒律では禁止されていたことです。

俗どころか、戒律に背く行いです。

しかし、その畑を耕すところにも仏道を見いだしたのです。

これは思想が先にあったのか、やむを得ず畑を耕し労働せざるを得ない状況になって、自分たちの置かれた境遇にも意義を見いだして、聖と俗との境界を越えたのかどうかはわかりません。

おそらく最初期の禅僧たちは、当時の聖なる世界からはみ出した者たちがつくっていたのだと想像します。

そんなところにこそ禅の魅力を覚えるのであります。

野性味があるのです。

会昌の廃仏にあたっても巌頭和尚のように船の渡し守をして暮らすなどというのもそうであります。

世俗の中にも聖なるものを見いだしているのです。

もとをたどっていくと、『維摩経』にある「道法を捨てずしてしかも凡夫の事を行ず」という教えがそうであります。

道法は聖なる教えです。それを捨てずにしかも、凡夫の事は俗なる世界であります。

禅の教えにおいては、結界を設けて護摩壇で護摩を焚くのも、台所で煤にまみれてご飯を炊いているのも、同じ仏の姿となるのです。

修行時代には、なかなかこのところが分からなくて苦労したものです。

よく台所の係をさせられました。

台所の仕事は雑事、俗なる仕事であって、法衣を着て坐禅をするのが修行、聖なる行だと思っていました。

すると、早く台所の仕事を片付けて、少しでも時間を作って法衣を作って坐禅をしようと思ったものです。

そこで台所にわざわざ坐禅の座布団を用意して、少しでも早く台所の仕事を片付けて座布団の上で坐禅しようと思ったのでした。

そうすると空回りしてしまうのです。

かえって仕事も雑になって、疲れるばかりで、坐禅しても居眠りをしてしまって、どちらもうまくゆかないのです。

台所でみんなの為に料理をするのも、法衣を着て坐禅するのと同じ聖なる修行だと思って心を込めて行うことができるように、だんだんとなってゆきました。

掃除でもそうです。

掃除を早く終えて、坐禅しようと思うと、掃除が雑になります。

この掃除が、聖なる修行そのものと思って行うのです。

こうして聖なるものと俗なるものとの結界を超えるのが禅の教えだと思うのであります。

みんな仏心の中にあるのだというのです。

ところがそのようにして始まった禅の教えもだんだんと権威づけされて聖なるものと俗なるものとを分けるようになりました。

しかし元来は、そんな区分はないのです。

そうであるからこそ、こうしてYouTube動画で話をしているのであります。

はじめの頃には、管長がそんなYouTubeなんてと言われたものです。

管長というのは、一応聖なるもの、YouTubeなんて俗なるものと結界を作りたいのでしょう。

結界を超えるのが禅の魅力なのですから、そんな周囲の声には全くめげずに大いに発信しているのであります。

 
横田南嶺

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