icon_arrow-r_01 icon_tryangle icon_search icon_tell icon_download icon_new-window icon_mail icon_p icon_facebook icon_twitter icon_instagram icon__youtube

臨済宗大本山 円覚寺

臨済宗大本山 円覚寺

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ 2025.06.18 更新
  • 法話会・坐禅会・
    写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • 円覚寺売店
  • お知らせ
  • Q&A
  • リンク

© 2019 ENGAKUJI
ALL RIGHTS RESERVED.

お問い合わせ

2021.09.13
今日の言葉

教えることの難しさ

牛頭を按じて草を喫せしむという禅語があります。

『碧巌録』にも『無門関』にも出てきています。

「按」という字は、「おさえる、手で上から下へとおさえる」という意味です。

これは、食欲のない牛の頭を抑えつけて、無理に草を食べさせようとすることから、やる気のない者に無理矢理させることを意味します。

そしてそれは徒労に終わることを意味しています。

平田精耕老師の『禅語事典』には、「あまりに老婆心がすぎること、あるいは、無理に悟らせようとしても、時節因縁というものが熟さなければ無駄であるという意味を表わしています。」と解説されています。

そして更に、次の故事がもとになっていると解説してくれています。

引用させていただきます。

「昔、あるところに王をもしのぐほどの富豪があり、永年子宝に恵まれなかったところに、一人の男の子が生まれました。ところが、その子がふとした病で死んでしまいました。嘆き悲しんだ富豪は、その子の骨を銀の壺に収め、朝夕生ける者と同様に丁重にもてなしていたといいます。特に毎月十五日には山海の珍味などを集め、ありし日のことを語り号泣していたのです。
そのとき、一人の牧童が牛をひいて通りかかったのですが、どうしたことか突然牛がバッタリ倒れて死んでしまいました。すると牧童は草を持ってきて、「さあ食え。なぜ食べない」というのです。
それを見て富豪が、なぜそんなばかなことをするのかと問うと、牧童は「この牛はたった今死んだばかりで、まだ姿も元どおりです。それでも草は食べません。あなたの子は骨になってしまっているというのに、山海の珍味をそなえて悲しんでいても、どうしてそれを食べることができましょうか」

といったという話なのであります。

平田老師は「このことばは、ふたつの意味を持っています。そのひとつは、まったく意欲のないものに、いかに意欲をもたせるかということがひとつ、もうひとつは、受験勉強と恋愛だけは人にいわれてやれるものではないように、何事も本人の自発の心というものを待つより仕方がないことをいっています。」

と解説されています。

牛に無理矢理草を食べさせるのは無理なように、やる気が無い者には何を言っても無駄だということですが、しかし、平田老師は

「しかしながら、それでも、なおかつ教育者というものは、求める心のないものに、何度も何度も求める心、自発の心を起こさせるように努力する、これが本当の教育というものである、というふうにも私は考えています。」

と書かれていて感銘を受けました。

単に「やる気のない者には何を言っても駄目だ」といって、突き放したり、あきらめたりするのではなく、それでもやる気を起こさせるように努力するというのです。
これこそが、教育というものだと思いました。

森信三先生は、『修身教授録』のなかで、

「人を教えるということは実は教える者自身が常に学ぶ事である。」と明言されています。

教えることは、学ぶことなのです。

更に森先生は、

「教科の内容を教えるだけでも、実に容易ならざらる準備と研究を要する」のですが、「教育の眼目である相手の魂に火を付けてその全人格を導くということになれば、私達は教師の道が、実に果てしないことに思い至らしめられるのであります」というのです。

実に、「一人の人間の魂を目覚めさすと言うことは至難中の至難」なのであります。
では、この至難のことにどう対処したらよいのか、森先生は、

「それに対処する道はただひとつあるのみ」であってそれは「人を教えようとするよりも自ら学ばねばならぬということであります」ということです。

「そしてそのように生涯を貫いて学び通すというこころの腰の決まったとき、そこに初めて人生の一歩が始まると同時に真実の教育者としての一歩が始まる」のであります。

人の心にやる気を起こさせるのは、容易でありません。

やる気の無い者には何を言っても駄目だと、投げやりのなるのは、教える者の怠慢でしかありません。

かつては、修行道場に入門する者は、禅の道に志した者であったのでしょう。

現今は、お寺に生まれ育って、その延長で入ってくる者も多い時勢であります。

何を言っても駄目だと、時に愕然とすることも無きにしもあらずなのですが、そのたび毎に我に鞭打って、これは自らの学びが足らないからだと猛省するのであります。

そんなことを思いながら、あれこれと手立てを考え工夫しています。

かつてであれば、無理矢理にでも坐らせて、動けば棒で叩いてジッとさせていたのであります。

たしかにその様に強制的にすれば、見栄えがよく、いかにも修行しているように見えます。

しかし、一人一人の心に仏道への志が無くては、無理にさせることは苦痛でしかありません。

苦痛は続きませんし、修行道場を出れば反動がやってくるだけです。

無理に坐らせるよりも、如何にして坐ろう、坐らずにはおれないという気持ちにさせるかが大事だと思うのです。

倦まず弛まず生涯かけて道を求めてゆく土台を作るのが大事だと思って、日々取り組んでいます。

教えることは実に難しく、たいへんであります。

 
横田南嶺

教えることの難しさ

前の記事
次の記事

カテゴリー

  • 僧堂提唱(37)
  • 坂村真民 詩(88)
  • 掲示板 (今月の詩)(31)
  • 今日の言葉(2113)
  • 今日の出来事(164)
臨済宗大本山 円覚寺

〒247-0062 鎌倉市山ノ内409  
TEL:0467-22-0478

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ
    • 管長侍者日記
    • ビデオ法話
    • 回覧板 (おしらせ)
  • 法話会・坐禅会・写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • お知らせ
  • リンク
  • 円覚寺売店
  • Q&A
  • お問い合わせ