真の祈りとは
何かを祈るというのは、何かに頼るような気がしていたのでした。
しかし、この「祈り」について真剣に考えるようになったのは、なんといってもあの東日本大震災の時でありました。
気仙沼の地福寺様にうかがったときでありました。
すべてが津波で流された跡に、和尚が書かれた言葉がございました。
「いのって下さい
あなたのまごころを
被災した人たちに
てを合わせ
たむけて下さい
今だ帰らぬ人たちに
あなたのおもいを
その手につつみ いのって下さい」
素朴な言葉に、心打たれました。
しばしぼう然として立ちすくんでしまったことを覚えています。
これが人間の心だと感じたのでありました。
坐禅をすると、どうも自分が何か特別なものを得たような気になってしまいがちです。
なにも得たものも無い、無いと分かっているつもりでも、何かまだこだわりがあるものであります。
何も無い、何の力も無い、ただ一箇の人間としてただ祈ること、これは大きな衝撃でありました。
それから「祈り」について考えるようになりました。
アッシジの聖フランチェスコの祈りの言葉はすばらしいものであります。
ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えるので受け、
ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。
という言葉であります。
真摯なる祈りは、大きな力になると感じたのでありました。
ニーバーの祈りにも学びました。
主よ、変えられないものを受け容れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知を我に与え給え。
というものであります。
これもすばらしい言葉で、私も肝に銘じています。
変えられないものは受け入れなければなりません。
かといって、変えられるのに何もしないのは怠慢であります。
変えられることなのか、受け入れるしかないことなのか、見分ける智慧が必要なのです。
今年のお正月に聖心会シスターの鈴木秀子先生にお目にかかった折に、鈴木先生がこのコロナ禍に毎日行っておられる祈りの言葉を聞いて深く感銘を受けました。
紹介しますと、
「慈しみ深い神よ
新型コロナウイルスの感染拡大によって、いま大きな困難の中にある世界をかえりみてください。
病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の終息にむけて取り組むすべての人、医療従事者、病気に寄り添う人の健康が守れますように。
亡くなった人が永遠の御国に迎え入れられ、尽きる事のない安らぎに満たされますように。不安と混乱に直面しているすべての人に支援の手がさしのべられますように。
希望の源である神よ。わたくしたち感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、世界のすべての人と助け合って、この危機を乗り越えることができるようお導きください。
というのであります。
このように言葉に表して毎日真摯に祈りを捧げることの尊さを思いました。
先だって鈴木秀子先生にお目にかかった対談をする機会をいただきました。
月刊誌『致知』の企画でありました。
その時に私は鈴木先生から、本当の祈りとはどういうものは教わって、身震いするほどの感動をしたのでありました。
鈴木先生は伊豆のお生まれです。
聖心女子大にお入りになってシスターの道を歩まれるのですが、それまではキリスト教にご縁がなかったそうなのです。
鈴木先生の仰せによると、お父さまは小さな銀行を経営していておられたそうです。
そしてこんな不思議なことをなさっていたそうなのです。
お父さまは、毎朝縁側に立って一時間も全く身動きもせずにずっと庭を眺めるのが日課だったというのです。
ある時、まだ幼い鈴木先生が「何を考えているの」と聞いたところ、
「いや、何も考えていない。ツバメが来たなとか、ツルが飛んで来たなとか、雨が降ってきたなとか、それだけを考えている」と答えたというのです。
それで嬉しいとか、微笑ましいとか、動物たちが元気であってほしいとは思わないというのだそうです。
ただ鳥が飛んできた、ただ雨が降ってきたと受け入れるだけなのです。
この不思議な話をされて
鈴木先生は、
「私は後になって、ああ、これこそが祈りなのではないかと思うようになりました。」と仰ったのでした。
そして「目の前に起きてくることを、いい、悪いと判断せずにそのまま一つひとつ受け入れていく。父はそこに素晴らしさを感じていたんですね。」というのであります。
そこで鈴木先生はさらりと
「坐禅なんかもそうではありませんか。」と仰いました。
私は、感動して「坐禅もその通りです、心に浮かぶことをただ見つめているだけなのです。」と申し上げたのでした。
祈りというと、自分の都合の良いように願いごとをしてしまいがちでありますが、キリスト教の言葉でいえば、神の御心のままに委ねることでありましょうし、仏教ではご縁のままに任せることなのであります。
これこそが真の祈りだ、真の坐禅だと深く感動したのでありました。
ここではじめて祈りと坐禅が一致したのでありました。
坂村真民先生も「何々の為に祈るのではない」という詩を作られています。
やたらに旗を振らぬがよい
何何の為めにという
祈りは
一方的なものとなり
却って
世を乱し
人を苦しめ
大きな戦争にまで
なってしまうのだ
やたらに
旗など
振らぬがよい
無条件の祈り
何何のためにという
条件のついた
祈りでなしに
まったくの
空であり
無である
宇宙的な祈りを
無条件の祈りと言う
地球の平和と
人類の幸福とを
成就達成できるのは
この祈りより外にない
米同時多発テロ事件を
きっかけとして
大きな戦争となったが
二度とこんなことが
おこらないよう
この祈りを
全人類の祈りとしよう
鈴木大拙先生もまた
「私の無心というのは(中略)たとえばキリスト教的に言うと、「御心のままに」というようなことなのです。」(『鈴木大拙一日一言』)
と仰っています。
真民先生の「祈り」という詩があります。
最後は
み心のままにと
祈るほかはない
横田南嶺