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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.08.14
今日の言葉

仏の御いのち

『碧巌録』という禅の書物に、こんな問答があります。

雲門禅師にある僧が聞きました。

「法身とはどのようなものでしょうか」と。

雲門禅師は答えました。

「六不収」と。

これだけの問答です。

これだけでも、すぐに理解できるようなものではありません。

「法身」と「六不収」と二つの言葉が難しいものです。

まずは質問にある「法身」とは何か、考察してみます。

仏さまというと、はじめはお釈迦様お一人でありました。

実在の仏さまというのは、紀元前のインドにお生まれになって、八十歳の寿命でお亡くなりになった、お釈迦様その人であります。

お釈迦様は、八十歳でお亡くなりになりましたが、お釈迦様が亡くなっても、お釈迦様の教えは滅びることはありません。

もう少し申し上げると、お釈迦様の悟られた真理は、なくなることはないのです。

この教えとか真理というものを、仏教では「法」と申します。

現実の肉体を持ったお釈迦様は亡くなっても、「法」としての仏さまは変わることはない、滅びることはないという見方がなされるようになりました。

これは「法身」であります。

元来「法身」は、真理そのもの、これを仏教では真如とも申しますが、これは目に見えるものではなく、姿も形もありません。

経典には、仏の真の法身は、虚空のようであると説かれています。

虚空のように姿も形もないものが、「物に応じて姿を現す」のであります。

それが、あたかも「水に映った月のようなもの」だというのであります。

その姿も形もない「法身」とはどのようなものでしょうかと、雲門禅師に僧が質問したのでした。

すると雲門禅師は、「六不収」と答えたのであります。

これは「六に収まらない」という意味です。

では六とは何かというと、六根、六識などの六つの要素を表します。

六根とは、お互いに具わっている六つの感覚器官のことです。

眼耳鼻舌身意を表します。

その六つの感覚器官が、それぞれ外の対象をとらえます。

それが、六境とか
六塵と申します。

色声香味触法の六つであります。

目で見るもの、色形が色です。耳に聞こえるものが、声です。
鼻で嗅ぐのが、香です。舌で味わうのが味です。身体で触れるのが触です。そして意識で思うのが法なのです。

そして、それぞれの六根が六境に触れて、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を形成します。

同じ物を見ても、認識はそれぞれ異なるものです。

同じ景色を見ても、素晴らしいと見える人もいれば、なんでもない景色にしか見えない人もいるのであります。

同じ音を聞いても、音楽などであれば、良い音楽だと聞く人もいれば、雑音にしか聞こえない人もいるのであります。

同じ場所にいても、涼しいところから来た人は、暑いというし、もっと暑いところから来た人は、涼しいというのであります。

みんなが同じ世界に住んでいるように感じますが、厳密にはそれぞれが別の世界を作ってその中に住んでいるのです。

同じものを見て、同じ音を聞いて、同じ場所にいても、それぞれの人は違う世界の中にいるのだというのが仏教の見方なのであります。

これが共通のものを見たり聞いたりしていると思うのが、勘違いであり、思い込みなのであります。

この六根を通して六識が得られる、その中でお互いは暮らしているのであります。

「六不収」というのは、仏さまの本当の身体というのは、その六つに収まらないということです。

収まらないということは、その六つを超えたものであるということです。

六識ではとらえることのできない世界なのです。

六識でとらえた世界というのは、分別の世界なのです。

それはまた不滅の世界でもあるのです。

もっともそれは不生であり、生じたものではないのであります。

この生じることもなく、滅することもない世界を、盤珪禅師は「不生の仏心」と言いました。

平田精耕老師は『禅語事典』のなかで、道元禅師が、「仏の御いのち」と表現したと説かれています。

仏の御いのちは、私たちの六根六識を越えたものであり、私たちを包んでくれています。

生まれる前の世界といってもいいでしょう。

死んで帰る処といってもいいでしょう。

そこで、人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取ると言うのであります。

六識でしかものを見ていないと、それは生じて滅する世界でしかありませんし、比較対象の世界であり、争い、差別の世界であります。

そこには苦しみがつきまといます。

しかしながらそれを越えたところの「仏心の世界」「仏の御いのち」には、生じることも滅することも、差別も比較もないのであります。

私たちは、この六識でとらえた世界がすべてだと思っています。

しかし、それを包み込んでいるもっと大きな「仏の御いのち」があるのであります。

それを「父母未生以前本来の面目」と言ったりするのです。

そういう仏の御いのちこそが、私たちの本当の自己であり、本当の故郷なのであります。

それを頭で考えて知ろうとすると、認識になってしまいますので、六識の中に収まってしまうのです。

坐禅は、六識を否定します。
六識ではからうことをやめるのです。

あの正受老人が、この「仏の御いのち」に目覚めた時に、「娘生の面目を打破した」と書かれています。

親から生まれたままの、六識で作り上げた自己を打ち破って、大いなる「仏の御いのち」に目覚められたのです。

そして「仏の御いのち」に身を委ねてしまうのであります。

まずは、今の一呼吸がどこから生じているか見てみましょう。

仏の御いのちから一呼吸が立ち現れて、仏の御いのちの中に帰っていっているのです。

そして、その一呼吸そのものが、仏の御いのちのはたらきなのであります。

 
横田南嶺

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