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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.07.27
今日の言葉

聞いてくださるおかげで

昨日、マインドフルネスの講義を受けていて、講師の川野泰周さんが、満員のエレベーターに無理矢理乗り込もうとしている人の例を話されました。

エレベーターが満員になって、満員を告げるブザーも鳴っているのに、それでも無理に乗り込もうとしていている人をどう思うかという問いでした。

普通であれば、不愉快に思います。

なかには、怒りを爆発させることもあるかもしれません。

しかし、その人が聴覚障害の方だったら、どう思うかと問われました。

すると、思いは変わるのであります。

人はおおむね耳が聞こえるというのが、そもそも思い込みであり偏見なのであります。

そんな話を聞いていて、森繁久弥さんの話を思い起こしました。

聞いた話なので、正確ではないのですが、たしかこのような話だったと思います。

森繁久弥さんは、「屋根の上のヴァイオリン弾き」を九百回も上演なさったそうです。

あるときのことです。

「屋根の上のヴァイオリン弾き」の芝居が始まったのに、客席の最前列で頭を垂れ、居眠りをしている少女がいました。

最前列で居眠りされていると、演じる方がやりにくくて仕方ありません。

私などにもその気持ちは分かります。

森繁久弥さんをはじめ俳優さんたちは、みな面白くないものですから、みんなで、なんとか起こしてやろうと思ったのでした。

その少女の近くで演技するときには、わざと床を音が高くするように踏み鳴らしたりしたのでした。

そんな努力のかいもなく、少女はついに目を覚ますことはありませんでした。

やがて芝居が終わり、アンコールの幕があがりました。

そこで少女は初めて顔を上げました。

少女の両目が閉じられていました。

少女は全盲だったのでした。

眠っているかのように見えたのは、盲目の人が全神経を耳に集め、芝居を心眼に映そうとする姿だったのだと森繁さんは知りました。

何という心無いことをしてしまったのかと、森繁さんは自らを心から恥じて舞台の上で泣いたという話であります。

どんな人であっても観客を感動させようという森繁さんの熱意と、自らの至らなさを恥じて涙する情のあつい一面を物語ります。

予断、偏見は禁物なのであります。

ちょうど川野さんの講義を拝聴する前の日は、花園大学で今期最後の講義をしていました。

コロナ禍の前までは、公開講座で一般の方々が熱心に聴講してくれていました。

補助椅子も出して、二階席も入っての盛況ぶりでありました。

そんなに大勢入っていると、少しくらい態度のよろしくない学生がいても目立たないし、気にもならないものです。

話をする方としては、熱心に聴いてくれる人を見て話せばいいのです。

これは、話をする時に教わることです。

はじめのころ話をするのに慣れない時には、一人でもいいから、熱心に頷きながら聴いてくれる人を探し出して、その人に語る気持ちで話をするということです。

これは、話し慣れない時には、有効です。

態度のよろしくない人に気を取られてしまうと、うまく話せなくなってしまいます。

私はおかげで、多くの熱心な聴講の方々に支えていただいてきました。

それが、コロナ禍で状況は一変しました。

その熱心な一般の聴講の方々は入れなくなりました。

学生だけになりました。

そして、今期からはハイブリッド式というので、更に教室の学生は少なくなりました。

前回の講義なども鎌倉からでかけて、あまりにも聴講が少ないので総務課の方が聴いてくださったほどでありました。

有り難いことであります。

しかしながら、そのように小人数になりますと、あまり態度のよろしくない学生も目立つようになります。

今までは、そういう学生の方を見ないようにして話をしてきたのですが、否が応でも視界に入るのであります。

そこで、先日もその学生たちの方は見ないようにして、総務課の方の方をみて話をしようとしたのですが、心に「いや、まて」という声が聞こえました。

「それでいいのか」という声です。

そこで、先日の講義の時には、あえて、そのあまり態度の好ましくない学生さんたちにずっと視線を向けて講義をしました。

もちろんのこと、そうしたからといって、学生さんたちの態度が改まるわけではありません。

相変わらずで終わったのですが、私としては何か心の中で「これでよい」という思いが湧いてきたのでした。

もしもあのまま目を逸らして話をしていたら、こんな感覚は得られなかったと思います。

態度がよろしくないなどという思い自体が、そもそも考えものであります。

態度よく聴いて当たり前という思い込みがあるからです。

授業が始まって、出席だけ取って、サッサと席を立って教室から出ていく学生もいる中で、中に止まって私の話を最後まで坐って聴いてくれるだけで有り難いのです。

いくらなんでも聴衆がなければ話もしないでしょう。

坐ってくれているだけで感謝なのです。

ようやくそのように思えるようになったのでした。

コロナ禍でなければ、私は気がつかなかったことでありました。

聴衆が激減したおかげで、そういう学生たちから視線を逸らすことをしなくなったのでした。

まずそのように聴いてくれる方を、こちらの身勝手な基準で、態度がよい、よろしくないなどと区別すること自体が問題なのです。

学生さんにもそれぞれ事情がありましょうし、みなが仏教学や禅を専攻しているわけではないのです。

やむを得ず講義に出ていることもあるでしょう。

疲れがたまっていることもあるでしょう。

そんなことを、いろんな経験をしてこそ学ぶことができます。

やはり感謝するのであります。

 
横田南嶺

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