マインドフルネス講習
修行僧や本山の和尚さん共々受講させていただきました。
私などは、もはや頭脳が退化していますので、有り難いことに、何度拝聴しても初めて聴く思いで学ぶことができています。
マインドフルネスとは、「今この瞬間の体験に意図的に注意を向け、評価をせず、とらわれない状態で観ること」という定義をはじめに教わりました。
これだけでも何度聞いても覚えられないもので、聞くたび毎にそうだったと思い返すのであります。
そしてそのマインドフルネスは、アウェアネス(きづき)とアクセプタンス(受容)から成り立つと説明してくださいました。
アウェアネスとは、外から入ってくる情報と、自らの内部から湧いてくる情報、いずれにも自在に注意を向けられる状態に近づいてゆくことであり、
アクセプタンスとは、得られた情報に対し、批判したり先入観で決めつけたりすることなく、ありのままに受け止められるようになることだそうです。
この説明をノートに書き写しながら聞いていて、ふと六祖慧能大師の言葉を思い起こしました。
六祖大師は、「坐禅」を定義して、
「外、一切善悪の境界において心念起こらざるを名づけて坐と為し、内、自性を見て不動なるを名づけて禅と為す。」(『六祖壇経』)
と説かれました。
坐禅というのは、外界に善悪どんなことが起こっても心を動かさないことを「坐」といい、内に向かっては自分とは何かということに心を集中することを「禅」というというのであります。
アクセプタンスというのと、自性を見て動じないこととは、そのまま同じとは言いがいのかも知れませんが、外の情報をしっかり意識して、振り回されないようにして、自分の内面を自覚しておくことの二つが大事なことは共通しているように感じたのでした。
アクセプタンスでいうところの、「得られた情報に対し、批判したり先入観で決めつけたりすることなく、ありのままに受け止められる」というのは言葉で言うのが易く実際には難しいものだと痛感します。
川野さんも講義では、コロナ禍の無自覚の偏見ということを説明してくれていました。
コロナという見えない敵への不安がどうしてもございます。
それに対して、特定の対象を見える敵として嫌悪の対象としてしまうのです。
そうして嫌悪の対象を偏見や差別をすることで遠ざけてしまって、つかの間の安心感を得るというのであります。
誰かのせいにしてすり替えてしまうのであります。
偏見というのは、誰しも持っているものです。
それも気がつかずに持っているのが厄介であります。
偏見を持っていたと気がつけばいいのですが、なかなか気づきにくいのです。
今回も川野さんは、禅でいう「念起即覚」の言葉を何度も取りあげてくださっていました。
念が起きれば、すぐに覚めるのであります。
偏見が起きていたと気がつけば偏見は止むのです。
そこで川野さんは、満員のエレベーターにあえて一人乗り込もうとしている絵を示してくれました。
この乗り込もうとしている人をどう思うかということです。
絵では、満員を知らせるベルも鳴っている様子が描かれていました。
ベルも鳴っているのに、それでも乗り込もうとするなんてと、怒りの感情が沸き立つものであります。
しかし、この人が聴覚障害の人だと知ったらどう思いますかと問われました。
そういうことが分かると、いっぺんに思いが変わります。
私たちは、無意識のうちに、たいていの人は耳が聞こえると思いこんで判断しています。
正しく認識することが如何に大事であるか、そして如何に困難であるか考えさせられました。
それから、瞑想にも注意を一点に集中する瞑想と、広げる瞑想があることを学びました。
禅の修行は、一点に集中するものだと思われることが多いらしいのですが、川野さんは、禅の修行は集中と観察の両方を兼ね備えるものだと指摘されまして、これは私も同感であります。
そして、最後には、マインドフルネスの実践によって、集中力や注意力の強化や、脳を休息させることによる回復効果、判断力の向上、ストレス耐性の向上、自律神経調整、睡眠改善などの効果があることを示されて、自分への思いやりが生まれ、自己肯定感が高まることを説いてくださいました。
セルフコンパッションを得る為にいろんな方法も紹介してくれて、あっという間に二時間の講義が終わりました。
充実した時間でありました。
講義では、セルフコンパッションという言葉くらいは、ようやく覚えましたものの、今回もスキーマ、アンコンシャス・バイアス、セイリエンス・ネットワーク、バックドラフト、カームイメージ、などなどカタカナ言葉が多くて、なかなかもう頭には入って来なくて苦労します。
それでも、川野さんの熱意が十分に伝わってきて、こうしてくり返しくり返し学んでいれば、少しは頭に残って、マインドフルネスになれるかなと思って学び続けています。
少しでも自分自身の偏見、思い込みに気がつけるようにならなければと思っています。
横田南嶺