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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.03.25
今日の言葉

禅と発酵

発酵生活研究家の栗生隆子さんに久しぶりにお目にかかりました。

好評をいただいているYouTube対談に登壇していただいたのでした。

栗生さんは、お写真からも分かるように、おきれいな貴婦人という感じですが、実に壮絶な人生体験をなさっています。

詳しくは、YouTube対談でご覧いただくとして、何でも十四歳の時までは、実に活発な少女だったそうなのですが、歯医者にかかって当時許可されていたアマルガム(水銀)を歯に詰め物として入れてから、体調が悪くなったのでした。

腹痛、下痢、めまいなどに襲われました。

どうにか学校には通うものの、段々とひどくなっていきました。

しかしながら、歯に入れた詰め物が原因とは全く分からなかったのです。

いろんな医者に診てもらっても異常なしとのこと、異常がないので治療法もないと言われたのでした。

度重なる下痢を治める為に下痢止めを飲みます。だんだんと強い下痢止めを服用していって、ついに腸内の菌が死滅してしまいました。

腸内菌がないと吸収ができないのです。

二十代になって、会社勤めも難しくなり、部屋にこもって、ベッドとトイレを往復する日々を送っていました。

十四歳から二十年間、そんな苦労をなされたのでした。

まわりの仲間達は、楽しい青春を謳歌しているのに、自分一人は絶望のどん底でした。

「死」という文字が頭に浮かんだとも言います。

もうどうしようもなくなった極地で、「意識が飛んだ」と仰っていました。

体もなにも無くなって、意識の感覚だけがあるという状態だったそうです。

しかし、意識だけになっても、この痛みが無くならないと気がつかれました。

そんな絶望の極で、栗生さんは、ボロボロの体でも五感を通して知ることができることがある、だから人は生まれてきたのだろう、とにかくいのちの続く限り、この体で生きようと思われたのでした。

その瞬間に、すっと意識が元の体に戻りました。

治したいという思いや、夢や希望といった一切の願望が無くなったところから、ふと生きると決意したのです。

すべてを受け入れる決意をしたのでした。

そこでまず始めに台所の流しに置いてあったお茶碗を洗おうと思いました。

無の状態から、ふと洗おうと思ったのでした。

その時には、一つ一つの動作の感覚だけが鮮明に感じられました。

足で起ち上がる、足の裏で床を踏む感覚、歩いてゆく一歩一歩の感覚だけが鮮明に感じられました。

水道の蛇口に触れたその触覚、水が出てきますが、その流れる液体を肌で感じたのでした。

これは「水」という言葉も概念もなくなって、ただ流れる液体の感覚だけだったといいます。

自分の思考や願望が無くなって、ただ意識の上に浮かんできたものをただ行うだけという状態になったのでした。

これは、至道無難禅師が詠われた、

生きながら死人となりて なりはてて
 思いのままに するわざぞよき

という歌を一致する心境です。

そうした心境から、少しずつ「生きよう」と思えるようになってきました。

いろんな健康法を教わるうちに、段々体が回復してきました。

冷えとりなども効果があったようです。

そんな課程で、発酵食品に出逢ったのでした。糀で作った甘酒を飲んで、「腸が喜んでいる」と感じました。

そこから、糀を使った発酵食品を作るようになったのでした。

そして段々と体調が戻っていって、ある日ようやく歯に入れた詰め物が原因だったと分かり、歯科医で歯を治療し直したのでした。

その時に、一切の苦から解放されたのでした。

実に二十年にわたる苦悩でした。

十四歳の時に歯科医の診察台の上で、アマルガムを入れてから苦悩が始まり、二十年の苦しみを経て、また診察台の上でその苦悩が終わったのでした。

そのことを、栗生さんは、自分はその間診察台の上から一歩も、いや一ミリも動かずに、その間のことをただ映像としてみていただけだったのだと仰るのであります。

何もないところに、自己という現象がただ現れているだけ、自己は幻影であり、何もないところが本体だというのです。

そんな体験をした時には、まだ仏教や禅には出逢っておらず、まわりに理解してくれる人も無かったそうです。

後に般若心経を読んで、自分が体験したことを、このお経には全て書かれていると感動したそうです。

般若心経は、何かの解説書をご覧になったのですかと聞くと、漢文の原文のみだったとのことです。

どこに感銘を受けたのかと聞くと、「不生不滅」というところ、特に「不生」ということ、何も生じていないのだから、何の苦悩もないと気がついたというのです。

これは、「不生で全てが調う」と説かれた盤珪禅師の体験とほぼ一致するといっていいでしょう。

さらにまわりに理解してくれる人がいなくて苦労したというところも同じなのです。

自分というものはない、何も生じていなかった、何もないところにただ現象が現れているだけだということに気づかれたのです。

先のベッドからお茶碗を洗いに行ったという体験にしても、意識もなにも無くなったところで、ただ鮮明な感覚のみがたちあがっているだけなのです。

これを模倣しようとして、マインドフルネスなどは、訓練として行うのでしょうが、自分の意識下で行うものですから、自我の枠組みを離れることはできないのです。

「生きながら死人となりて なりはてて」の状態に栗生さんは、期せずして到ったのでした。

そこから「思うがままに するわざぞよき」を体験されたのです。

禅の修行をしたといっても、多くはこのまねになってしまっています。

形だけ、或いは修行法をまねしているだけで、無我のところ、「死人となりはてた」ところには到り得ないのです。

更に栗生さんは、発酵食品を研究するにつれて、自分が生きているのではない、目に見えない菌を含めて大きなつながりの中で、ただ生かされているということを体感されました。

栗生さんにうかがう菌の話は興味深いものです。無我を教えてくれます。

そんな栗生さんは、わたしたちが僧堂で普段いただいている、梅干し、たくあん、お味噌汁が、最高の発酵食品だと褒めてくれました。

発酵は、その土地によって変わるのだそうです。

円覚寺は山に囲まれた清浄な空気の中にあるので、いい菌がたくさんあるのだそうです。

だから素晴らしい発酵をするというのです。

栗生さんのお話を聴いて、私などは、今まで修行のために、お粥や梅干しにたくあんを食べてきたと思っていましたが、実は、最高の環境に身を置かせてもらって、最高の食事をいただいて、幸せの真っ只中に置いてもらっていたのだと、ようやく気がついたのでした。

発酵を通じて、禅は、改めに足元にあることを教わりました。

栗生さんの壮絶な体験は、まもなくYouTube対談で公開されますのでお楽しみに。


 
横田南嶺

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