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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.02.07
今日の言葉

沢木興道老師の教化

辻光文先生のことは、神渡良平先生のご著書を通じて知りました。

神渡先生の『苦しみとの向き合い方 言志四録の人間学』に書かれています。

辻先生は、東京でお生まれになり、秋田の山中の禅寺のお寺で育ちました。

小学六年のときに、親友の父親が亡くなりました。

友の心中を思い、悲しい思いで、教室に入ると、いたずらっ子が言いました。

「お前のところは、今日儲かるな」

「そやないか、おれたちの親は汗かいて働いて金を稼いでいるが、お前んとこはなんや、人が死んでお葬式があれば儲かるお寺じゃないか。葬式で飯食っているんだろ」

というのでした。

そう言われても、葬式仏教と言われる実態は否定できません。

光文さんは、高校を出て、京都の臨済専門学院で学ぶのですが、元来自己探求の道であるはずの仏教が、僧侶が生きてゆく為の糧を得る葬式仏教になりさがっている現状に嫌気がさして、僧侶にはならずに郷里の中学校の教師になりました。

その後も「生きるとは何か、職業とは何か、仏教とは何か」模索して、友松円諦師のもとにも通い、京都の一灯園にもお入りになりました。

自分が生命をかけて関わることのできる天職があるのか、それとも人生は糊口をしのぐ糧を得るために汗水流すだけのことでしかないのか、思い悩みました。

そんな思いを、臨済専門学院でお世話になった柴山全慶老師に打ち明けました。

柴山老師は、後に南禅寺の管長になられた名僧であります。

柴山老師は、何とかこの青年を導きたいと思ってか、花園大学に入るように勧めました。

花園大学で学びましたものの、信念は変わらず、在家仏教徒として生きることにしました。

幾多の苦労を重ねますが、やがて大阪の教育支援施設を訪ねたことから、そこで住み込みで働くことになりました。

その後、大阪市立阿武山学園という小舎夫婦制の施設で、道を踏み外した児童たちと生活を共にしながら、自立を手助けするようになりました。

そこに送られてきたS子の話は胸打つもので、私も小冊子『合掌のこころ』にも書かせてもらっています。

あるとき、辻先生の許に母に捨てられたS子が送られてきました。

スーパーにいっしょに買い物に行っていたとき、置き去りにされ、捨てられたというのです。

近所の人に連れられて家に帰ってみると、家はもぬけの殻になっていたのでした。

施設にまわされてきたものの、S子はあばれるばかり。

嘘をついて表面的なごまかしをし、辻先生にも悪態をつき、トラブルばかりでした。

さしもの辻先生ももてあまし、「この子さえいなければ」とため息をつくこともありました。

ところがS子は悪性腫瘍にかかり、緊急手術することになりました。

医者は暗い顔して、助からないかもしれないと言っています。

S子は二度とこの美しい山河を見ることはできないかもしれないと思うと、S子のためならどんなことでもしたいと思いました。

ただただ助かってほしいと祈りました。

S子の入院生活は一か月続きました。退院してからのS子は見違えるように変わり、嘘をつくこともなくなりました。

幼い子どもたちの世話も積極的にするようになり、学園を卒業して社会人になりました。このことを通して、辻先生は本当に教えられたそうです。

辻先生は、

「私に児童の心に届く教護のあり方を教えてくれたのはS子でした。

いろいろ指導し、面倒見ているようでしたが、心の底からいとおしいとまでは思っていなかったのです。

S子が死に直面して、初めて私の愛情の浅さに気づかされました。

するとS子はみちがえるほど変わっていったのです。

私はやっとわかりました。

私が心の中でS子を問題児だと思っていたので、それが彼女を萎縮させ、荒れさせていたのです。

問題は彼女にあったのではなく、私自身の中にあったのだと深く気づかされました」

というのです。

そこで、辻先生は「私はS子のいのちを見ていなかった」と反省するのです。

S子は、人間は誰でも御仏のあふれるような慈悲に包まれていることを、辻先生に気づかせてくれたのです。

こうして辻先生の世界観、人間観はいっそう深くなっていきました。

するといい結果が生まれて、問題児は辻先生のところに送ればよくなるといわれるようになりました。

この手応えに、ようやく「私の天職はこれだ!」と思うようになったのでした。

そこで辻先生は、次のように詠いました。

「『いのちはつながりだ』と平易に言った人がいます。

それはすべてのもののきれめのない、つなぎめのない

東洋の「空」の世界でした。

障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、

区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち、いのちそのものです。

それは虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、

宇宙の塵の果てまでつながるいのちなのです。

劫初よりこのかた、重々無尽に織りなす命の流れとして、

その中に、今、私がいるのです。

すべては生きている。

というより、生かされて、今ここにいるいのちです。

そのわたしからの出発です。

すべてはみな、生かされている、

そのいのちの自覚の中に、宇宙続きの、唯一、人間の感動があり、

愛が感じられるのです。

本当はみんな愛の中にあるのです。

生きているだけではいけませんか」

という言葉であります。

神渡先生の『苦しみとの向き合い方 言志四録の人間学』より引用させていただきました。

その辻先生とご縁があったのが、夢工房だいあんの光田敏昭さんであります。

光田さんに、『合掌のこころ』の小冊子を謹呈したところ、沢木興道老師と辻先生のご縁について教わりました。

辻先生が、東北で中学教師をしておられた二四歳の時に、沢木老師が講演会をなされたのでした。

どういう事情だったのか分かりませんが、聴衆は辻先生一人のみ。

老師の講演のはじまりは、「人間は数ではない」という一言からでした。

辻先生は、既成仏教教団の僧侶になることへの悩みを打ち明けました。

すると沢木老師は、

「わしは、同業組合と手を結ばんもん。

本山がなんのかんのと言っても屁でもない。

おらの前にはお釈迦さんと、道元さんしかおらせん。

問題は、この世に生まれて来た仕合わせ、ああ人間に生まれて来た甲斐があった、と思えにゃ駄目なんだ。

世の中に両方いいものなんて唯一つもありゃせん、

おらあはそんな人間の寄って集まる同業組合と手を結ばぬ為に、こうやって苦労してるんです」

と語ったそうです。

辻先生は、

「人格から迸る炎のような言句に、当時の私は脳天を突き刺すに充分であった。

みんな一人ひとり、全く独自な一回限りの人生である。

自他を超え、永遠の世界を見すえた真実の生きる姿を、私はこの時はじめて、垣間見た気がする」

と述懐されています。

出会いは、たった一度きりでも、その後数十年すぎても強烈に心を専有すると語っています。

若き青年の悩みに真剣に答えられた沢木興道老師の偉大さを思います。

 
横田南嶺

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