icon_arrow-r_01 icon_tryangle icon_search icon_tell icon_download icon_new-window icon_mail icon_p icon_facebook icon_twitter icon_instagram icon__youtube

臨済宗大本山 円覚寺

臨済宗大本山 円覚寺

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ 2025.06.18 更新
  • 法話会・坐禅会・
    写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • 円覚寺売店
  • お知らせ
  • Q&A
  • リンク

© 2019 ENGAKUJI
ALL RIGHTS RESERVED.

お問い合わせ

2021.01.25
今日の言葉

二にして一、一にして二

禅の教えの根本には、人はみな本来仏であるという真理がございます。

本来仏だけれども、妄想執着のために気がついていないと説かれました。

本来仏の心を持っているという教えは、禅が興る以前に、『涅槃経』や『華厳経』で説かれています。

これらの教えが基礎になって発展したのが禅であると言えるでしょう。

本来仏の心を持っているけれども、煩悩妄想が邪魔していて、隠れているのだというのです。

そこで、煩悩や妄想、執着などを払いのけてゆけば、本来の仏の心が現れると説きました。

鏡と塵ホコリに喩えられました。

鏡が本来の仏のこころです。

それに塵やホコリがついてしまって、鏡が見えなくなっているのです。

塵やホコリを修行によって取り除けば、きれいな鏡が現れるというのです。

とても明瞭で分かりやすいものです。

しかし、仏の心と、それに反する煩悩などと、二つに分ける考えに異を唱えたのが、禅宗の馬祖という方であります。

そのもとは、六祖慧能禅師からであります。

六祖慧能禅師は、鏡のホコリを取り除こうなどという事は不要だと説かれました。

更に馬祖禅師は、迷っていようが、煩悩があろうが、そのありのままがまるごと仏なのだと説かれたのでした。

煩悩を、仏心と分けて取り除くという考えをしませんでした。

仏になるということを、三大阿僧祇劫と言われるような気の遠くなる遙か彼方に求めて、ひたすら努力し続けて、疲弊しているような人にとっては、あなたのその心こそが仏であるという教えは、素晴らしく、大きな力となり、救いとなったことでしょう。

小川隆先生は、

「本来性と現実態の無媒介の等置ーありのままの自己の、ありのままの是認 それが馬祖禅の基本精神」であると説かれています。

現実の自己と、本来の心即ち仏心とが、一体、ひとつであるという教えであります。

この教えは、ひたすら努力し続けてきた人には、素晴らしいものですが、始めから本来仏なのだ、煩悩も妄想もそのまままるごと仏だというところに安住してしまうと、自堕落な暮らしになりかねません。

盤珪禅師の教えにも似通ったところがあります。

妄念を除く必要はない、そのままにしておけばいい、みな仏心の光の中に消えてしまうというと、そのままにして、妄念妄想に振り回されたままということになりかねないのです。

そこで、馬祖の教えを批判する者が出てきました。

これが禅の尊いところです。

馬祖を絶対の教祖のように崇めて教えをひたすら受け取るのではないのです。

しかも、馬祖の弟子の中からも批判が出ているのですから、驚きです。

こういうところが禅の魅力でもあります。

そう簡単に、本来の心と現実の心とを一つにしてしまっていいのかと批判したのでした。

こちらが、石頭(せきとう)系の禅者たちです。石頭禅師たちの一派です。

本来の自己と、現実の自己とは、二にして一、一にして二という不即不離な関係になると説かれました。

洞山禅師が、橋を渡っているときに、河に映る自らの姿を見て、河に映っているのは自分だ、しかし自分と河に映る姿と同じかというと同じではないというのです。

本来の自己と現実の自己と、同じとも言えないし、違うとも言えないのです。

ということを僧堂で説明していて、僧堂の修行僧がよく理解できないというので、あれこれ説明してみました。

臨済禅師も、お腹が減ったらご飯を食べ、くたびれたら眠る、そのありのままが仏だと説いています。

これは馬祖の教えそのものです。

しかし、現実には、今眠たいなと思っても、今寝ていてはいけないと、目を覚まさなければと歯止めを掛ける自分がいるでしょうと説きました。

ちょうど、眠たいのを我慢しながら、私の話を聞いている最中なので、譬えに用いました。

彼等も、そうですねと答えます。

食べたいなと思っても、今食べる時ではないので、辛抱しなければと思うことがあるはずです。

食べようと思って食べて、眠ろうと思って眠っているだけでは、いけないことがあります。

その時に、もう一人の自分が歯止めをかけます。

その時の自分は二人なのかというと、全く別人格の二人いれば問題であります。

一人なのだけれども二人、二人なのだけど一人でしょうと説明しました。

この心、そのまま皆仏であるとすれば、本堂に仏様をお祀りする必要もなくなります。

私自身の暮らしが仏そのものなら、何も仏様をお祀りして拝んで礼拝する必要はないのです。

しかし、それでも自堕落になりかねないので、私の心と仏の心とは一体だけれども、敢えて本堂に仏様をお祀りして、仏様を礼拝して、仏様に見守っていただいているという安心感を得、更に仏様の眼に恥じることのないように意識して修行をするのです。

瑞巌和尚という方が、毎日自分自身を主人公と呼んで、自ら「ハイ」と返事をしていたという話があります。

自らが主人公で、毎日の暮らしが、主人公そのものですから、本当は呼ぶ必要もないのでしょうが、あえて、自ら呼んで、目覚めさせようと勤めるのです。
呼ぶ我と、呼ばれる主人公と二人いるわけではありません。しかし、完全に一つというわけにもいかない、

本来一つだけれども全く一つにしてしまうわけにはいかないところが実際にあるのですと説明したのでした。

分かったような顔をしてくれていましたが、はてさて、二にして一、一にして二ということがどこまで伝わったでしょうか。

 
横田南嶺

二にして一、一にして二

前の記事
次の記事

カテゴリー

  • 僧堂提唱(37)
  • 坂村真民 詩(88)
  • 掲示板 (今月の詩)(31)
  • 今日の言葉(2113)
  • 今日の出来事(164)
臨済宗大本山 円覚寺

〒247-0062 鎌倉市山ノ内409  
TEL:0467-22-0478

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ
    • 管長侍者日記
    • ビデオ法話
    • 回覧板 (おしらせ)
  • 法話会・坐禅会・写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • お知らせ
  • リンク
  • 円覚寺売店
  • Q&A
  • お問い合わせ