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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.01.23
今日の言葉

阿弥陀様のような

松本紹圭さんと対談するにあたって、松本さんが最近noteに書かれている文章を読んでいました。

有料記事だけに、どれも内容の深いものばかりです。

そのなかにとある青年僧との対話に興味が引かれました。

昨年の四月に大学を卒業したばかりの浄土真宗の僧が、noteに

「22年間で学んだ慈悲の教えを胸に、果たすべき僧侶の役割とは」

という文章を書かれていたのでした。

それは、お世話になった人への感謝を込めて、どんなお坊さんになりたいのかを書いたものでした。

この内容が素晴らしいものです。

その青年は、阿弥陀様のような慈悲を持った人を目指して僧になりたいというのです。

阿弥陀如来は、悟りを開いて仏になる前は、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と呼ばれていた菩薩でした。

その法蔵菩薩は、生きとし生けるもの全てを救えなければ自分は仏にならないという誓いをたてて修行しました

そして、五劫という長いの修行の末、その誓いを達成して仏様になられたのが阿弥陀様です。

その青年は、

「阿弥陀様は「誰一人決して捨てない」「ありのままの自分を救ってくれる」仏様です。

僕は阿弥陀様のように深い慈悲を持った人になりたいです。

そして、一人でも多くの人々が人の温かさを感じられるような慈悲の心があふれるお寺や社会をつくりたいです」

という、実にキラキラと輝くような願いであります。

純粋な思いが伝わってきて、読んでいるだけでも心が清らかになるように感じます。

しかしながら、その青年の属する浄土真宗という宗派の教えでは、このような願いはあまりよくないのだそうです。

問題があるというのです。

そこで、松本紹圭さんに相談されたのだそうです。

松本さんも、この青年の発心をこの上なく素晴らしい発心だと讃えながらも、浄土真宗においては、問題になるところがあると親切に示されていました。

浄土真宗で問題になるというのは、

「阿弥陀さまのような深い慈悲を持った人になりたい」

という箇所なのです。

松本さんの言葉によれば、

「浄土真宗は阿弥陀如来の一人ばたらき。阿弥陀様にカケラでも自分が近づけると思ったら、大間違い」

になるのだそうです。

愚かなる凡夫の我が、阿弥陀さまのおはたらきに救われるのだということでしょう。

宗派によっては、いろいろと難しいところがあるのだと学びました。

禅的に申し上げると、阿弥陀さまのような慈悲を持った人になりたいと思う、まさにその心こそ仏さまだと説きます。

阿弥陀さまになりたいと思う心、それこそ阿弥陀さまだと説くのであります。

馬祖禅師が説かれた「即心是仏」という教えであります。

「即心是仏」とは、馬祖禅師に対して、「仏とはどのようなものでしょうか」と聞いた僧に対して、

「ほかならぬ、その心こそが仏である」と答えた言葉です。

仏を求めようとする、まさにその心こそが仏であるというのです。

この青年の純粋な願いの言葉を聞いていると、阿弥陀さまのように慈悲を持った人になろうという、まさにその心こそが、阿弥陀如来だと言いたくなります。

私の推測ですが、即心是仏という教えは、華厳経の「初発心時便成正覚」が淵源になっているのではないかと思います。

善財童子が、五十三人もの善知識を訪ねて仏道を求めて旅をしようとする、まさにその発心を起こした時に、悟りは成じられているというのです。

求めようという、その心が悟りの心にほかならないのです。

同じ浄土門でも、浄土宗になると、少々趣が異なります。

浄土宗でも西山派というところでは、機法一体といって、お互いの信心と阿弥陀如来の救いのはたらきとは一体であると説いています。

浄土宗の椎尾弁匡僧正は、私が尊敬申し上げるお念仏の方であります。

お若い頃に、阿弥陀さまが本当にいらっしゃるのかどうか、確信が持てないと悩まれたそうです。

「どうも、向こうの方に阿弥陀さまが木像のように坐っていたり、立っていたりすることばかり」で苦しまれたそうです。

苦しみ求め抜いた末に、

「長い間かみしめかみしめ味わって、漸く阿弥陀さまのお育てを向こうに書いた画でなく、只今、ここに生きて活動している椎尾と共に生き給うていて、お育てをうけていることがいただけるようになって、始めて一つの確信を以て人さまにもお話ができるようになった。

阿弥陀さまがあるとかないとか、どんなお方であるのどうかということの現証は、この椎尾自身がいまどう生かされて生きているのかということだ、

私が学問研究にぶち込んでいようが、布教に地方に出ようが私の生きて働いている姿を見ればそこに弥陀の生きておいでなさる現証なり、お育ての力をしることができる。

お経をいろいろ出して来て、ここにこうある、あれにはこうあると、諸経が弥陀を讚ずること多しとあって、経典をもちだして経典の文字であれこれ証明しようとしてもそれはだめでした」

と述懐されています。(『椎尾弁匡先生と共生仏教』)

そうして

「全身全土全衆生阿弥陀仏の極楽の中には一切衆生が入っている。

みな生かされている。

即ち阿弥陀さまは極楽世界に遍満しておる。

即ちどこにもいまさざるところはないのである。

私たちの、今こうして話している所にもましまして、阿弥陀仏が私と共になり、私どもをお育てになっておる姿である。

即ち私どもが、ここにお互いに合掌南無阿弥陀仏したところが、阿弥陀さまのお育てをいただいたところである」

と確信をもたれるようになったのでした。

そんな心情を、

ときはいま ところあしもと そのことに
 うちこむ いのち とわのみいのち

と詠われたのでした。

今、ここ、足元で何かのことに打ちこんでいる、その命が、永遠の命、すなわち阿弥陀さまだというのです。

阿弥陀さまのような人になるではなく、あなた自身阿弥陀さまそのものであるというのが禅の教えであります。

 
横田南嶺

阿弥陀様のような

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