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臨済宗大本山 円覚寺

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2020.03.18
今日の言葉

どんな教えにも禅が

鈴木大拙先生の言葉に、

「禅は、必ずしも仏教徒の思想と生活の源泉であるにとどまらない。

それはキリスト教の中にも、回教の中にも、道教の中にも、そしてまた実証主義的な儒教の中にさえも、多分に生きている。

これらの宗教や哲学がみな、活力に満ち、精気にあふれて、その有用性と効力とを保持しているのは、

その中に「禅の要素」とでも呼ぶべきものが存在するからである。」

というのがあります。

禅のおいては、他の宗派のように所依の経典を持たないと言われています。

バイブルのような特定の経典をもたないのです。

さらには、「不立文字、教外別伝」というように、文字によらず、経典などとは別に心を伝えると言います。

それだけに、どのような教えの中にも禅の教えが生きていて、そこから禅の教えを学ぶことができるのです。

よく坂村真民先生の詩を引用させてもらいますが、

真民先生の場合は、禅を深く学ばれていますので、その詩から禅の教えを学ぶことができるのは、当然といえば当然でありましょう。

しかし、なにも特別禅を学んでいなくても、その言葉から禅の教えを学ぶことが可能なのです。

この頃、まど・みちおさんの詩集を読んでいます。

こんな詩がありました。

「ぼくがここに」という題です。

 

 ほくがここに

ほくが ここに いるとき

ほかの どんなものも

ぼくに かさなって

ここに いることは できない

 

という一節で始まります。

私が、今ここにいるときは、他の誰も、他の何者も、この私の場を私に重なって占めることはできないというのです。

つまり、いまここに私がいるということは、かけがえのない私だけのであります。

その詩の最後には

 

ああ このちきゅうの うえでは

こんなに だいじに

まもられているのだ

どんなものが どんなところに

いるときにも

その「いること」こそが

なににも まして

すばらしいこと として

とあります。

 

私が、いまここにこうしているこということは、他の誰にもできないし、

そしてこの地球の上では、どれだけ多くの力に守られているかはかりしれません。

そう気がついてみれば、いまここに「いること」が、なににもまして素晴らしいことだというのです。

まさに、今ここにこうしていることが、どんなに素晴らしいことか、

どんなに多くの力に守られているか、しみじみ味わい感じるのです。

ゆったり坐って、静かに呼吸して、いまここにいることの素晴らしさ、ありがたさをしみじみと味わう、そんな坐禅をしたいものです。

まど・みちおさんの詩からも禅の教えを学ぶ事ができます。

横田南嶺

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