臨済の三句
4月に始まった雨安居(うあんご)の最後の大攝心も、4日目「攝中」(せっちゅう:中日のこと)を過ぎました。2日後に講了日が迫る中、在錫する25名の修行僧は獅子奮迅の気迫で己と向き合います。
横田南嶺管長の提唱の一節をご紹介します。
仙陀婆(せんだば)という譬え話が『涅槃経』という経典に出てきます。
仙陀婆というのは、一に塩、二に水、三に器、四に馬という四つの意味があります。
王様が朝起きて手や顔を洗おうとなさって、家臣に「仙陀婆」というと、
家臣はすぐさま水を持ってきます。
食事の時に「仙陀婆」と言われたら、
食事の味付けに必要な塩を持ってきます。
食事が終わって「仙陀婆」と言われたら、
器を持っていって飲み物を飲ませてさし上げます。
王様が外出しようとなさって「仙陀婆」と言われたら、馬を用意するのです。
こうして王様の意のまま用途に応じ、違うことがないようになれば上出来であります。
そこから、相手が意味していることをその言葉の前後から正しく判断できうる俊発怜悧の人を仙陀の客などと表現しています。
更にもっと言えば、王様が何も言う前に、お水を用意したり、馬の用意ができるようになれば言うことはありません。
何か言葉にする以前に、王様の様子をチラッと見て、王様の心を察するのが臨済禅師のいう「第一句」であります。
言葉になる以前に分かるのです。
第二句は、王様から「仙陀婆」と言われて気がつくのです。
「仙陀婆」などという言葉は、常識では推し量れないものです。祖師の「乾屎・(かんしけつ)」だの
「麻三斤(まさんぎん)」だのという言葉で気がつくのが第二句です。
第三句というのは、この場合に王様が「仙陀婆」と言われたらお水を用意することだよとか、
馬を仕度することだよと親切丁寧に説明してあげることです。
人は、それぞれです。
何も言う以前に気がつく人もあれば、何か一言で察する人もあれば、
丁寧に説明してあげてようやく分かる人もあります。
それが第一句、第二句、第三句というのです。
いずれにしても、その人に気がつかせることが大事なのです。
(7月8日の提唱 -『臨済録』序文- より)