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臨済宗大本山 円覚寺

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2019.05.26

修行は現在進行形

 釈宗演老師は、六波羅蜜をお互いの体に譬えて説かれています。

布施は手のようなものであり、持戒は足のようなもの、

忍辱はお互いの腰にあたり、精進は脳であり、

禅定は心、そして智慧は眼であると説かれています。

布施は手のようなものだというのは、

手から手へ物の渡し合いをするように、

心の手と手をもって慈愛同情のわたし合いをすることだというのです。

持戒は足のようなものだというのは、

お互いが立ちあがりどこかに行こうとするには、

皆この足によって歩むものであって

仏道修行の実践は必ず持戒によってこそ成し得るものだというのです。

持戒は、よき習慣であります。

よき習慣をつけることによって、悟りの世界へと歩を進めてゆけるのです。

忍辱は腰であるというのは、

腰は文字通り私達の体の一番かなめです、

志が弱いと腰がくじけてしまいます。

腰がしっかりしていてはじめてものごとはうまくゆきます。

本気本腰で、何でも辛抱強く事に当たる忍辱こそは、

心の腰の力に相当します。

精進は脳であるというのは少し理解が難しいのですが、

脳は全神経の中枢であって、脳のはたらきは目にも耳にも手脚にも常に絶え間なく作用しているのです。

お互いが真剣に勤め励むという精進努力こそ、あらゆる修行にはなくてはならないものだということです。

智慧は眼であります。

お互いは目によって白黒を見分けるように、

智慧の光をもってすべての物事の真実の様子が見分けられるのであります。

そのような体の動きもすべて心がおおもとであります。

その心を調えるのが禅定であります。

このようにして、六波羅蜜を身心のはたらきに譬えています。

生きていることは常に身心の活動にほかなりません。

そのように日常の暮らしの中で常に六波羅蜜が実践されていなければならないということであります。

 修行というと、我々臨済宗の世界では、過去形で語られることが多いのです。

自分は僧堂で修行した頃は、どうだったという話が多いように思われます。

また日常の暮らしとは別の特別のもののように思われることも多いでしょう。

 しかしながら、日常の活動は常に現在行われているように、

修行もまた常に現在進行形で行い続けているものでなければなりません。

いつもの暮らしのなかにこそ、六波羅蜜の実践があるのです。

六波羅蜜は常に現在進行形である事を忘れてはなりません。

{ 横田南嶺老師 僧堂提唱より}

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