智慧の完成
六波羅蜜の最後は、智慧波羅蜜です。
波羅蜜とは、梵語のパーラミターを音写したもので、意味は古来「到彼岸」と訳されていました。
悟りの岸に到ることです。
または完成を意味します。
智慧は梵語のプラジュニャー、パーリ語のパンニャーの訳であり、音写では般若です。
智慧の完成とは、般若波羅蜜の訳語にあたります。智慧の完成こそ、目指すべきところなのです。
「なにものにもとらわれない清らかな智慧は、禅定より生まれる」と
経典には説かれています。
心を静める禅定によってこそ、清らかな智慧が生まれます。
私たちに馴染みの深い『般若心経』には、智慧の完成を実践すると、
五蘊は皆空であると見て、一切の苦しみから解放されると説かれています。
五蘊は、肉体と精神のはたらきです。
お互いにこの体があります。これが「色」です。
この体が外の世界に触れて何かを感じます。それが「受」です。
自分にとって心地好いか、そうでないか、苦であるか、快楽であるかを感じるのです。
感じたことについて、更に思うことが「想」です。
快楽であることには喜びの思いを起こします。苦であることには、怒りの思いを起こします。
思ったことについて、何か行動しようとします。これが「行」です。
喜びであると思うと、更に愛着を起こし、もっと欲しくなります。
怒りを生じたものには、更に憎しみを起こし、攻撃したり排除しようとします。
そうして、自分の都合によって、外の世界を色分けして、
都合のよいものは善であるとし、都合の悪いものは悪であると認識します。これが「識」です。
この五つの集りによって、私たちはそれぞれ自分独自の世界を造り上げています。
皆同じ世界に住んでいるように思うかもしれませんが、それぞれの五蘊を造り上げて、
その世界に生きているのです。
ですからお互いに分かり合うということは容易ではないのです。
しかし、坐禅して心を落ち着けて、正しい智慧を完成してみると、
そんな五蘊は、自分が勝手に造り上げたものであり、
幻のようなもの、蜃気楼のようなものであって、
何の実体もないものだとわかります。それが空であるとわかることにほかなりません。
お互いの五蘊を守ろうとするから苦しみが生じるので、
五蘊が空だとわかれば苦しみは無くなるのです。
そんな自分中心の世界が空であるとわかってこそ、
はじめて外の世界が、あたかも鏡に物が映るようにはっきりと見えるようになってきます。
曇りガラスが取れたようなものです。
すると今までの自分中心の見方が無くなりますから、初めて平等に見ることができます。
そこで、その時の状況がよく観察できるようになるのです。
そうすれば、その時その場でどう動けばいいか明瞭になってきます。
これが智慧の実践であります。
智慧の実践は、必ず慈悲となって現れてくるものです。
智慧と慈悲とは一体のものなのです。
{ 横田南嶺老師 僧堂提唱より}