2019年6月27日

6月29,30日 どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

 
 さて、6月29,30日の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

6月29日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 @居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 6月30日(日)

●8:05~9:50 日曜坐禅会 @大方丈 

8:05~8:20 坐禅

8:30~9:30 横田南嶺老師による「盤珪禅師語録」という禅の語録の提唱

9:30~9:50 坐禅

という内容です。初心者の方には、8:10~20の間で、足の組み方などを説明しますので、

 必ず、時間までにお越しください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2019年6月26日

6/27(木)~7/21(日)の写経会の予定

延命十句観音経写経会の予定は以下のとおりです。
どなたでもご参加いただけます(個人の方は予約不要です)。
※以下記載の受付時間帯に随時受付けます。所要は平均40分(個人差はあります)。

6/27(木)~6/29(土) 受付時間 10:00~11:30 13:00~14:30
6/30(日) 受付時間 10:30~11:30 13:00~14:30
7/1(月) 受付時間 10:00~11:30 13:00~14:30
7/2(火) 受付時間 10:00~11:30《午前の会場:大書院》午後の受付時間 13:00~14:30【午後の会場:蔵六庵】
7/3(水)~7/4(木) 受付時間 10:00~11:30 13:00~14:30
7/5(金) 午前休会 午後の受付時間 13:00~14:30
7/6(土) 受付時間 10:00~11:30 13:00~14:30
7/7(日) 受付時間 10:00~11:30 13:00~14:30【会場:蔵六庵】
7/8(月)~7/9(火) 受付時間 10:00~11:30 13:00~14:30
7/10(水) 午前休会予定 午後の受付時間 13:00~14:30
7/11(木)~7/13(土) 受付時間 10:00~11:30 13:00~14:30
7/14(日) ①日曜説教の写経会(日曜説教に引き続き) ②通常の写経会 受付時間 13:00~14:30
7/15(月)~7/20(土) 受付時間 10:00~11:30 13:00~14:30
7/21(日) 受付時間 10:30~11:30 13:00~14:30

場所:方丈 大書院 (または 【蔵六庵】 蔵六庵写経会場 案内図)  
写経料:一律千円(納経料を含みます) 持ち物:不要
詳細はご覧いただいております円覚寺ホームページの「坐禅会・写経会」の中にご案内がございます
または、右をクリックして下さい → 「写経案内」PDF

なお、諸般の事情により、急に休会や時間変更になる場合がございますので、
どうかご容赦いただけますようお願いいたします

2019年6月26日

六道輪廻

 六道輪廻というと、死んだあとに、地獄に落ちたり、餓鬼道に生まれ変わったりと、

死後に生まれる世界のように思われることが多いようです。

 しかし、何も死んだ後に限ることではありません。

東嶺和尚は、一日の中にも六道輪廻はあるのだと説かれています。

 自分の思うように事が運ばずに怒りの思いを起こした時は、修羅道に落ちているのです。

自分の好きなものばかりを追いかけて貪欲に耽ってしまっている時は、餓鬼道に落ちているのです。

あれこれお思い悩み、心が暗く沈んでふさがってしまっている時は畜生道に落ちています。

思い悩みも深く、ケチで執着が強く、それに怒りの炎がやむことなく、

人を苦しめ物を害してしまうような時になると、それは地獄に落ちているのです。

 このような状態にあるときは、人間の心を失って悪道に堕ちていると言えます。

 逆に一時、心が落ちついて静かになって、何も思い煩うこともなく、胸中澄み渡ったような時は、

天上界にいるのであります。

 しかし、天上界は究極の安らぎではなく、

またいつ地獄に落ちるか、餓鬼道の心になってしまうかはわからないのです。

 一日の内でも、この六道をぐるぐると回っているのです。

 六道の中でも、仏の道を目指すことができるのは

人間界のみであると説かれています。

地獄に落ちては、仏など思いもつきません。

餓鬼道に落ちても仏どころではないのです。畜生道も修羅道でも同じであります。

 天上界なら良さそうに思われますが、

これまた苦しみがなく楽ばかりだと、仏道を求める心も起きてこないのです。

 苦も楽もあって、心が正しく判断できるのは人間の心のみです。

 しかし、一日の間にも六道を回っていて、人間の心の状態でいる時は、長くはありません。

東嶺和尚は、三分の二は悪道にいると説かれています。

人間の心を保っているのは三分の一くらいだと言うのです。

 まずそのことをよく認識して、人間の心を保つ時にこそ、

仏道を求めるべきなのです。

とりわけ、布施に志し、戒を意識して、思うに任せないことに堪え忍び怒りを露わにせず、

精進努力して、心を静めて、正しい智慧を身につけようと努力するのです。

こうして六波羅蜜に心がけていれば、菩薩の道に入っているのです。

 そのように勤め励んでいれば、必ず諸仏もお守り下さり、道は自ずと開けてまいります。

{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}

2019年6月25日

地に倒れて、地より起つ

 地面でつまずいてころんだならば、またその地面で起ち上がることができます。

倒れたままでいれば、それきりですが、

人はまたそこから手をついて足を踏ん張り、起ち上がることができるのです。

 東嶺和尚は、「倒れてはまた起き上がり、また倒れては起き上がり、

進み進めばついに到るなり」と示されています。

ころんだところで起き上がるのです。

これを繰り返すうちに、何に気がつくかというと、

私たちは常に大地に支えられていることなのです。

どんなにつまずいてもころんでも、大地は常に私たちを支えていてくれるのです。

更に東嶺和尚は、そこから戒の問題に敷衍して、

「一戒を犯せば、直に佛前に懴悔して、又道に進むとは此の事なり。」と示されています。

 よくマインドフルネスの説明などを聞いていても、

雑念が起きたら、すぐにそのことに気がついて呼吸にもどればいいのだと言われています。

雑念が起きることが問題ではなく、

気がつかずに流されてしまうことが問題だというのです。

 同じことは、戒においても言えます。

戒というと、戒めを守らなければいけないと思って、

窮屈に感じてしまいますが、そうではありません。

そもそも、私たちは常に戒に背いてしまいがちなのです。

 そこで、戒に背いたと気がついて、また意識して戒にもどることが大切なのです。

この気がついてはまたもどることを習慣にしてしまうのです。

戒を完全に守ることを習慣にしようとすると大変です。

絶対にころばないでゆこうと思うのと同じで、かえってびくびくして萎縮してしまいます。

ころんでもまた起き上がることを習慣にするのです。

 すると、大地に支えられていることに気がつくように、

戒によって守られていることに気がつきます。

戒を意識して、戒に立ち戻ることを繰り返すと、常に戒に守られていることがわかります。

 それはとりもなおさず、ほとけさまに守られていることと同じなのです。

みほとけに守られている安心感を持つことができる、

これが戒を意識して暮らす一番大きな意味なのです。

{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}

2019年6月24日

鹿の慈悲


今年の円覚寺の標語 布袋さん

 お釈迦様は、王子として生まれ三十五歳で悟りを開かれました。

お釈迦様がお亡くなりになった後に、実はお釈迦様は三十五歳で悟る前にも、

長い間生まれ変わりを繰り返して修行していたのだと説かれるようになりました。

それがお釈迦様の前生の物語として伝わっています。

お釈迦様が前生において鹿であったお話です。

その国の王様は、肉を食べることが大好きで、毎日のように鹿狩りをしていました。

鹿狩りのたびに、多くの鹿が殺され、傷ついたのでした。

そこで鹿の王は考えて、王様に進言しました。

このような鹿狩りを続けられると、多くの鹿が無駄に死んでしまいます。

これからは一日一頭の鹿を差し出しますので、いたずらに鹿を傷つけることはおやめ下さいと頼みました。

 それからは、毎日順番で一頭の鹿が、首切り台に上り、それを王様の料理人が持ってゆくのでした。

 ある日の事、一頭の子供を宿した母鹿が順番に当たって、

首切り台に上ることになりました。

母鹿は、鹿の王に、今自分は子を宿しているので、どうか子を産んでからにして、

順番を飛ばしてくださいと頼みました。

 鹿の王は、他の鹿に替わってもらうわけにはいかないと、

自らが首切り台に横たわりました。

それを見た料理人は、驚いてすぐさま王様にこのことを告げました。

 王様は、鹿の王になぜおまえはここに横たわっているのか問いました。

鹿の王は、子を宿した母鹿のことを話しました。

そして自分が身代わりになっているのだと告げたのです。

 そのことを聞いた王様は、そんな忍耐と慈悲の心を具えた者を

かつて人間の中にも見たことがないと言って、鹿の王と母鹿の命を救うことを約束しました。

 更に鹿の王は、われらの命はたすかりましたが、他の鹿達はどうなりますかと問うと、

王様は、他の鹿達も安全を確保してあげると約束したのでした。

 そこで多くの鹿が、その村で幸せに暮らすようになったという話であります。

 その鹿の王こそが、前生のお釈迦様でありました。

 こんな話が修行の本質とは何かを教えてくれます。

何かを学んだり、身につけることよりも、

わが身をなげうって、他の命を救うという慈悲の行を積み重ねることこそが、仏陀になる道なのです。

{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}

2019年6月23日

見聞覚知の主

 白隠禅師の年譜の六十七歳のところに、

京都島原の遊女大橋の話が載っています。

 この大橋という女性は、

もとは江戸の武家の生まれで、和歌や茶道書道を学ぶなど恵まれた環境で育ちました。

ところが、とある事情から父が浪人となってしまい、生活にも困窮するようになってしまいました。

そこで大橋は、まだ弟もいるので、家族を何とかしようと思って、自ら身を売って家族の窮乏を救いました。

 覚悟して苦海に身を沈めたものの、

もとは武門の生まれでありながら、

毎日の辛い暮らしに苦しみ悩むことになりました。

どうしてこのような目に遭わねばならぬのかと自らを恨み、

鬱々とした日を過ごしていました。

やがて病の床に臥して、とうとう医師も手の施しようがなくなってしまいました。

 そんな或る日のこと、ある客が大橋に言いました。

一つだけ、この苦しみからたすかる道があると言うのです。

どんな方法ですかと尋ねると、その客は言いました。

 生きているのは、見聞覚知の活動にほかならない。

見たり聞いたり感じたり思ったりすることです。

その見聞覚知には主がいるはずである。この見聞覚知の主は何者か、

見る者は何者ぞ、聴く者は何者ぞとひたすら問いかけてゆけば、

必ず本来具わっている仏心が現れると教えてくれたのでした。

 藁にもすがる思いで、大橋は言われた通り、

病の床に臥しながらも、見る者何者ぞ、聴く者何者ぞと工夫しました。

 或る日のこと、ひどい雷が町を襲いました。落雷が相次ぎました。

大橋は特に雷が怖かったので、部屋の中で布団に潜り込んでいました。

しかしこれではいけないと思い、布団の上に端座していました。

そんな折に、大橋の家の庭に雷が大音声と共に落ちました。

 大橋は気絶してしまいましたが、意識を回復すると、

見もの聞くものみな今までとがらりと異なっていました。心が開けたのでした。

やがて身請けされ、その夫も亡くなり、再び一素居士という方のところに嫁ぎ、

居士と共に白隠禅師に参禅するようになりました。 

見聞覚知の主は何者かと工夫することによって、

たとえどんな苦海に身を沈めたとしても、

仏心は汚れひとつ着かないことに目覚めることができたのです。

{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}

2019年6月22日

毛虫が異常発生しています。ご注意ください。

 今年、円覚寺境内では、毛虫が異常発生をしています。

なるべく、木に近づかないなど注意をしてお参りくださいますように。

2019年6月22日

一心の向けよう

 仏教では、仏もわれわれも同じ心を持っていると説かれています。

同じ心でありながら、仏にもなり、迷い苦しむお互いにもなるのです。

 その心をどちらに向けるかによって、

仏になるか、迷える者になるか、分かれてきます。

一心の向けようによって、仏にもなります。

お互い普段の心は、常に外に向かってはたらいています。

目で物を見ては、好きだ嫌いだと是非善悪の色づけをしています。

耳で音や声を聞いても、心地好いだ不愉快だと是非善悪の色づけをしています。

舌で味わっても、体で触れても同じことです。

そのように常に心は外の世界に向かってはたらいて迷いを引き起こしいるのです。

 その心を内に向けてみます。

目で物を見る時には、見える物を追いかけるのではなくて、

こうして見ている者は何者であるかと自らに問いかけます。

耳で音を聞いた時には、その音についてあれこれ思うのではなく、

この音を聞いている者は何者であるかと自らに問うのです。

 見たり聞いたりすることには、必ずその主がいます。

その主は何かと自らに問うことです。すると心が内に向かいます。

臨済禅師が、『臨済録』の中で、繰り返し外に向かって求めるなと説いています。

外に向かって求める者は愚かであると言うのです。

仏を求めようと思うならば、今この目の前で法を聴いている者、それだと示されています。

この臨済禅師の説かれた教えを、実際に自ら工夫してみるのです。

こうして話を聴いている時に、話の内容を穿鑿するのではなく、

これを聴いている者は何者ぞと自分自身に問い詰めてゆくのであります。

これが本来の心、即ち仏心に目覚めることのできる方法です。

{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}

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