2018年11月29日

12月1,2日どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会


さて、今週末(12月1、2日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

12月1日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 @居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めに、呼吸や体に意識を向けるなど

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに15分間くらいの坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)

<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 12月2日(日)は、

●8:05~9:30 日曜坐禅会 @大方丈

8:05~8:20 坐禅

8:30~9:00 坐禅 

9:10~9:20 読経

という内容です。初心者の方には、8:10~20の間で、足の組み方などを説明しますので、

 必ず、時間までにお越しください。

2018年11月28日

11月28日現在 円覚寺境内の紅葉②


 向かって左奥が北鎌倉駅。

 総門階段下。

 参道。

 妙香池周辺。

2018年11月28日

11月28日現在 円覚寺境内の紅葉①


 早朝の静寂した境内。


 総門。

 総門階段下。

 踏切からの眺め。

2018年11月27日

1月15日 夜の初心者向け坐禅会@居士林 参加者募集中


居士林(円覚寺の在家修行道場)山門
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居士林堂内

 最近、世間では、仏教瞑想に対する注目の高まりか、居士林で毎週土曜日に開催

されている土曜坐禅会・初心者の部(13:20~14:20)には、大勢の

方々が参加をしている現状があります。

 そこで、居士林では、夜間の初心者向けの坐禅会を設けました。

 この坐禅体験会は、2時間というゆったりとしたプログラムで、身体をほぐす体操、

呼吸への意識の向け方、足を組んで坐禅をし、最後に参加者の方に自己紹介と質問と

いった内容の懇談会となっています。

(また、椅子での参加も可能です。)

日時: 1月15日(火) 19:00~21:00

    月に一度以上の割合で開催する予定です。

    今後のスケジュールについては、当「居士林だより」にてお知らせします。

場所: 居士林 

定員: 20名

申込み:engakuji.kojirin@gmail.com  宛てに 件名「◯月◯日の夜の初心者向け坐禅会希望」にて

    ①氏名 ②住所 ③電話番号 ④年齢 ⑤職業 ⑥坐禅歴 ⑦参加動機 を記入して

    お送りください。

参加費: 大人 1000円 学生・子供 500円

  * 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2018年11月27日

11月27日 円覚寺境内の紅葉状況②


 総門階段。

 総門からの眺め。

 山門。

 法堂跡横の参道。


 舎利殿前にある万年門。


 黄梅院。

2018年11月27日

11月27日 円覚寺境内の紅葉状況①


 北鎌倉駅を降りて円覚寺への道。

 総門下。

 総門階段。

 洪鐘参道入り口のイチョウ。

 大方丈横の参道。

 正伝庵の門。

 妙香池。

2018年11月27日

「仏の一字、聞くことを喜ばず」

 趙州(じょうしゅう)和尚の言葉に、「仏の一字、吾聞くことを喜ばず」というのがあります。

仏教を学ぶ者にとって、仏とは理想の境地であり、目指すものであり、よりどころとなるものであるはずです。

 ところが、趙州和尚は、仏という一文字すら、聞くことを喜ばないというのです。これは、どういうことでしょうか。

 ある時に、趙州和尚が仏殿のそばを通っていると、一人の僧が恭しく礼拝していました。

仏殿にお祀りしているのは、寺のご本尊ですから、それを礼拝するのは当然のことです。

しかし趙州和尚は、その様子を見て、その僧を打ったのです。趙州和尚といえば、臨済禅師や徳山禅師と異なり、

棒や喝で人を指導するのではなく、言葉で人を導いたことで知られます。めったのことでは、棒で打ったりしない禅僧です。

それが、なんと礼拝している僧を打ったのですから、驚きです。

 僧は、礼拝することは良いことではないのですかと問いました。趙州和尚は答えました。

良いことも無い方がましだと。「好事(こうず)も無きには如(し)かず」というのであります。
 
 
 これは、どういうことかと言えば、趙州和尚にしてみれば、仏といい、或いは仏法といい、

すべて自分自身の心であり、毎日に暮らしそのものにあると体得されているのです。

その自分自身を離れたところに、特別何か尊いものを認めることを戒めているのであります。

自己の外にことさら、聖なるものを認めることを嫌うのであります。

 この頃は、曼荼羅などというものが、よく注目されています。たしかに仏の世界を表した、

すばらしい絵であります。

 しかし、私などは、すばらしいなと思いながらも、どうしても内心「好事も無きには如かず」

という思いがしてしまいます。

 曼荼羅はすばらしいものだけれども、私達の普段目にしてるこの山の景色、庭のたたずまい、

すべてが曼荼羅ではないかと思ってしまうのであります。

 何もあのような特別な絵を描かなくても、仏の世界は、私たちの毎日の暮らしにあるのだと思います。

日常の何気ない風景も曼荼羅だと思ってしまうのです。

 趙州和尚というお方は、十七、八の頃に出家して悟りを開き、南泉和尚の下で修行を積むこと実に四十年、

さらに三年南泉和尚の墓守をして、六十歳から禅の行脚に出て、諸方の老師方と問答して、

心境を更に練り深めて、八十歳でようやく趙州の観音院に住されました。

そこで四十年間お説法なさって百二十歳でお亡くなりになった方です。

 もう仏法は、趙州和尚の体全体に染みわたっているのでしょう。ですからこそ、

分のこの心と毎日の暮らしの外に、仏も法も認めることはないという心境なのです。

 我々は、趙州和尚の言葉だけまねてはいけません。趙州和尚の「仏の一字聞くことを喜ばず」

という一語が出てくるまでに、どれほど仏道を修め、修行を重ねに重ねたのかと思わなければなりません。

仏法を完全にわが身に消化されたからこそ、口にされた言葉であるのです。それまでは、ひたすら仏さまを礼拝し、

経典を読み、坐禅し数息観をし、威儀作法を習い、どこまでも仏法を身につけていく

努力を惜しまないようにしなければなりません。

{横田南嶺老師 提唱より}

2018年11月26日

円覚寺の紅葉状況①


 今日、現在の円覚寺境内の紅葉の写真です。

舎利殿前

妙香池

妙香池

居士林前

居士林前

居士林山門

選仏場前

山門

洪鐘参道入り口のイチョウ

総門階段

総門前

2018年11月26日

「至誠(しせい)」

「至誠」とは、この上なく誠実なこと、まごころを表します。

 中国の古典『孟子(もうし)』には「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。

至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」という言葉があります。

 「天地万物にあまねく貫いているのが誠であり、天の道である。

この誠に背かないようにつとめるのが人の道である。

まごころをもって対すればどんな人でも感動させないということはない」という意味です。

 まごころをもって接すれば、どんな人でも動かせる力があるということ表し、

この「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」の一言は

幕末の志士吉田松陰が大事にしたと言われます。

 ただし、その至誠、まごころは一時だけのものに終わってはなりません。

 これも中国の古典『中庸(ちゆうよう)』には「至誠無息(至誠息(や)むこと無し)」とあります。

 この上ない誠実さ、まごころを持って生涯を貫くことです。

『中庸』には「至誠息むこと無し」の後に「息(や)まざれば久(ひさ)し。

久しければ徴(しるし)あり」と続きます。

 「この上ない誠実さ、まごころを怠ることなく、あきらめずに保てば長く勤めることが出来る。

長く勤めれば必ず目に見えるしるしが顕れる」という意味になります。
 
 吉田松陰が大事にしたということからも、この至誠なるものは大きな力を持っていることが分かります。

あの徳川幕府を終わらせて明治という新しい近代国家を造り上げた原動力でもあります。

私もこの言葉に感動し、大事にしてきました。

 しかしながら、二十代や三十代の頃と違って、この頃は少々違和感も覚えるようにもなりました。

どんなに至誠でもって頑張っても無理なこともあります。また無理を至誠で押し通そうとするのも、

膨大な力が必要です。

 吉田松陰などは、その無理とも思われたことを成し遂げる原動力になったので、

多くの人から慕われるのでしょうが、この頃は私にとっては、それは無理をしているように

段々と思われるようになってきたのです。確かに明治維新はすばらしいのですが、

勇み足だったところもあり、その為に失ってしまったものもありましょう。

 今北洪川老師が『禅海一瀾』の中で、この「至誠息(や)むこと無し」の一語を取り上げておられます。

その中では、「至誠」のはたらきをこのように表現しているのです。

 「譬えば、以て鳥は春に鳴き、以て雷は夏に鳴り、以て虫は秋に鳴き、

以て風は冬に鳴るが如し。其れ唯だ毫釐も欺かず。而も循環、息むこと無し」と。

 訳しますと、「たとえば天地の至誠とは、鳥は春に鳴き、雷は夏に鳴り、

虫は秋に鳴き、風は冬に鳴るようなものである。それはいささかも(私意を以て)欺くことがなく、

循環して止むことがない」となります。

 自分の力で無理にでも成し遂げようという「至誠」ではなくて、大自然のはたらきそのものが

「至誠」であると言われるのであります。

 禅の修行とは、実はこの大自然のはたらきとひとつになってゆくことであります。

 道元禅師は「本来面目」という題で、「春は花夏ホトトギス秋は月冬雪さえて涼しかりけり」

と詠いました。大自然の営みそのものが本来の自己だというのであります。 

「春苦み 夏は酢の物 秋辛み 冬は油と心してくえ」という言葉もあります。

大自然の運行と順応してゆくことを説いています。

 大自然と一体になると言いましたが、それはむしろ逆であって、もっといえば、もともと一体であったのです。

そしてそれに気づくことであります。私の体はもともと大自然と一つになって働いているのであります。

 呼吸ひとつにしても、意識的に行う呼吸よりも、無意識に行われている呼吸によって、

われわれの体の二酸化炭素の調節が見事に行われているという研究があります。

私たちの体もまた大自然のはたらきにほかならないのです。

 こうして「至誠」というのは、私達を生かしてくれている大きな大自然の営みだと分かります。

その大いなるはたらきに身をまかせて無理をせずに行って方が長続きします。

その方が本当に「至誠息(や)むことなし」だとこの頃になって思うのであります。

(平成30年11月24日 禅をならう会『禅海一瀾』提唱より)

2018年11月25日

「海印三昧」

経典に「海印三昧」という言葉が出てきます。『禅学大辞典』によれば、

「無礙湛然なる仏の智慧の海に一切真実相が印で押した如く、はっきり映り現れるような、

不動の禅定に入った仏の境地」と説明されています。あるいは、一切のもの、一切の時が、

この三昧に現れ、絶対真実であることを述べているとも説かれています。

 よく瞑想にも、集中の瞑想と気づきの瞑想とがあると言われます。古来は坐禅ことを止觀とも言いました。

止はひとつのことに意識を集中すること、觀は観察することです。私達の行っている坐禅は、

主に集中の瞑想であると言えます。

 呼吸を意識的に細く長く調えて、呼吸を見つめ、丹田の一点に意識を集中し、

公案という問題に全身全霊を集中させます。そして、自我意識が薄らいでゆき、

やがて意識分別も及ばなくなって、無我を実証し、自他一如であり、天地と我と一体の心境を得ることを目標にしています。

その自他一如のところから自然と湧いて出てくるのが慈悲の心であります。そうして慈悲の実践行を目指すのであります。

 それに対して、先日早稲田大学の熊野宏昭先生に気づきの瞑想を教わりました。マインドフルネスといっても、

人によって実にさまざまなものがあるように思われます。

 熊野先生は、集中の瞑想を、フォーカスト・アテンションと表現され、気づきの瞑想を、オープン・モニタリングと表現されています。

そのオープン・モニタリングを先日教わりました。

 熊野先生に指導によれば、はじめはしばらく集中の瞑想をします。呼吸に集中するのです。

そこまでは、私達の坐禅と変わりません。

 そこから更に、呼吸を一切意識して調節しようとしないようにします。

ただ自然に行われる呼吸に気付くようにします。

 それから、更に全身を気づきながら、呼吸を観察します。体全体に息が入って、

体全体から息がでてゆくように意識します。

 更に自分の体の外に注意を向けてゆきます。聞こえる音、風のながれなど、

注意を無数に広げてゆくのです。そうして注意を無数に分割してゆくと、

自己というものが段々と小さくなってゆきます。あたかも高い処から自分を眺めているような感じです。

 そうすると外の世界と自分とが一体になっていると感じ取れるというのであります。

自他の分離がなくなり、自分とまわりとのつながり合いがよく見えてきて、自然と慈悲の心が湧いてくるという方法なのであります。
 
 私たちが行ってきた禅定が、外の世界を一切遮断して、自己を無くする修行をするのに対して、まったく逆なのです。

そんなまわりに意識を向けながら、自己が無くなるのであろうかと、私は不審に思っていました。
 

しかし、実際に自分でやってみると、なるほどその通りに実証できたのです。

 意識は透明に澄み切っていながら、そこに一切の現象がありのままにくっきりと

現れているのです。ふと、経典にある「海印三昧」とはこのことであろうかと思ったのでした。
 
 特に集中の瞑想では眠気が起きやすく、その眠気と戦って対治する必要があります。

そこで気力を振り絞るのですが、気づきの瞑想ですと、眠気がまず起きないし、

戦っている様子さえも静かに高いところから眺めている感じなのであります。

 集中の瞑想では、すべて自分の意識の力で行いますので、自分の思うとおりにいかないと心地よくなく、

また自分の禅定を妨げるものには敵愾心が出てきたりしてしまいます。

 それに対して、気づきの瞑想では、一切の計らいをやめてただ見つめる、すべての受け入れて見ていますので、

なにがあろうと穏やかなのです。

 熊野先生に教わった瞑想を自分も実践してみて、なるほと深いものがあると改めて思った次第です。

 私たちがよく読む『禅関策進』という書物に、「舍利弗、二十年の中、常に勤めて毘婆舍那を修得して、

行住坐臥、正念観察して曽て動乱することなし」という言葉があります。毘婆舍那とは、ビパッサナであり、

気づきの瞑想のことです。古来は、気づきの瞑想も行っていたのが、いつのまにか、

集中の瞑想だけに片寄ってしまったのが現状ではないのかとも思います。

 マインドフルネスというと、はやりもののように思われて、禅僧の中には嫌う人が多いようですが、

いろいろ実践してみるとおろそかにできないものがあります。むしろ学ぶものが多いと感じるのであります。

新しい世界が開かれ、一層深まってゆくことを感じるのであります。

(平成30年11月 横田南嶺老師 月並大攝心 『武渓集提唱』より)

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