2016年12月8日

成道会(今日は、お釈迦様がお悟りになった記念日です)

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 今日は、円覚寺・仏殿に於きまして、10時から成道会

(お釈迦様がお悟りになった日を記念する法要)が行われ、

臘八大攝心を無事に終えた横田南嶺老師をはじめ、25名の修行僧(雲水)、

また、和尚様方、そして、大勢の一般の参加者が参列して厳かに儀式が

執り行われました。
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 仏殿正面には、苦行を終えて山を下りてきた「出山釈迦像」が掲げられました。
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 参列する和尚様方。
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列拝(れっぱい)・・・集団での三拝。
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成道会についての偈(宗旨を込めた漢詩文)を唱える横田南嶺管長。
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(意訳)

 お釈迦様は、苦行の間ひたすら坐禅に打ち込んで、

蘆(あし)の芽が膝を穿(うが)って出るほどであり、冷気が肌を侵していた。

一日に一粒の麦や麻の実ですごし、それでも飢えに耐えて修行をされた。

それが暁の明星を見て、思わず微笑まれ、まるで山河大地がみな素晴らしいと

歓声の声をあげているようだ。

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疏(しょ)・・・成道会についての回向文を維那(いのう)役の和尚が

山節(やまぶし)という独特の節回しで唱えます。
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1週間に及ぶ厳しい修行を終え、成道会に参列する修行僧(雲水)。
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 最後に、横田南嶺管長から、大勢集まってくださった一般参列者の方々に

成道会の説明があり、参列者の方々にほうじ茶が振舞われて無事に終了となりました。

2016年12月7日

今週末(12月10、11日)、どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

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 さて、今週末(12月10、11日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

12月10日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めの40分で、呼吸禅、立禅、発声禅など

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに10分間の坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

お子様、親子でも安心してご参加いただけます。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)
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<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 さらに東京近郊の方には、円覚寺派白山道場・龍雲院の坐禅会がお勧めです。

円覚寺派管長 横田南嶺老師が出向されて坐禅、提唱をしてくださいます。

●12月10日(土) 8:30~11:30 坐禅の集い(碧巌録提唱) 於 龍雲院(文京区白山5-5-5)

 坐禅の集いは、横田管長が兼務住職をされている文京区・白山にある龍雲院で毎月行われている

坐禅会です。お問い合わせは、TEL 03-3812-5946まで。

12月11日(日)は、 

●9:00~11:00 日曜説教坐禅会(横田南嶺老師による法話と坐禅) 場所 大方丈

毎回500人近い、老若男女が集うお説教と坐禅会です。初めての方も多く参加されています。

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ー日曜説教坐禅会が行われる大方丈ー

 皆様のご来山を心よりお待ちしております。

2016年12月7日

「公案禅の問題とその対策」 一日一語128 

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<円覚寺山内・黄梅院にて>

横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 修行というのは、寝食を忘れるほどに打ち込むということは、

まず、第一であることは確かではありますが、しかし、そのように

熱を上げて打ち込むだけですべてが片付くわけではありません。

 我々、公案禅では、何でも成り切れ成り切れと言います。特にこういう

臘八大攝心では、全身全霊の力で一つに成り切っていく。その力が原動力と

なって煩悩、妄想を打破していく大きな力がついてくることも確かなことです。

 ただ、それが行き過ぎて脱線をしてしまうと、これは、恐ろしいことに

なってしまいます。何でも盲目的になってしまって突き進んでしまうと

これは、大きな過ちを犯してしまう。

 円覚寺開山・無学祖元禅師がまだ中国で修行中の頃、石渓心月禅師の住持するお寺に

怪石という僧がいて、石渓心月禅師が住持であったにもかかわらず、

修行僧は誰も石渓心月禅師に参禅をせずに、その怪石というのが修行僧を

煽り立てたという話があります。

 それが無字の工夫をやっていたのですけれど、行き過ぎてしまいます。

異常なまでに、まるで神がかりのようになって、大きな「無」の字を掲げて

張り出して、100~500人の修行僧が立ったまま、あるいは、坐ったまま

「ムームー・・・」と大声で叫びような修行をしていた。

 中には、高い崖の上から「ムー」と叫んで飛び降りて、けが人も出るは、

果ては、死人まで出てくる。そして、怪石は、また、言う。「本当の無字になったならば、

たとえ、死んでも目だけは残る。」と。

 邪教は恐ろしいもので、それで、修行僧を煽り立てて、きちがいの集団のように

なってしまった。成り切るということは、大事でありますが、しかし、ちゃんと

教えを学んで冷静に観ていくという「観(かん)」という眼(まなこ)もまた

必要であります。

 無学祖元禅師は、そのような気狂いの修行を「まるで蒸し風呂かサウナの中に

入って、ただひたすら我慢して、辛抱する。そうすると蒸し風呂から出てきたら

何か爽やかな気持ちになるのと同じだ。

 一時的に「ムームー・・・」やって、そうして、何か修行をしたかのような

気持ちになる。あるいは、その途中で様々な心理現象を体験する。そんなものが

悟りであると勘違いしたならば、これは、公案禅の大きな誤りである」と

縷々と論じてくださっています。

 時には、公案がいくらかの人を誤り、たぶらかしてしまうこともあります。

公案をやるものは、公案の良いところとそれぞれの短所・欠点を認識して

おかなければ間違いを犯しかねません。

 何に於いても、これですべてが片付くというような原理主義や特効薬の

ようなものは、ありません。もちろん、趙州の無字のような公案のおかげで、

それこそ、タワシで汚れをこすり落とすようにして、さっぱりとした心境に

なることも、これまた、事実です。

 しかし、やみくもに、公案がすべてであるという見方をしても、これまた

大きな過ちを犯してしまいます。その為には、教えをよく学ぶことです。

お釈迦様のお悟りというのは、「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の三法印を

出るものでは、決してありません。

 とりわけ、無我というところが一番重要になって参ります。しかし、

この無我というのが決して無我夢中になるということであろうはずがない。

まして、いわんや、自我を放棄する、捨て去るというけれど、捨て去った

気になっているだけで、残った自我が逆に増大をしてしまう人が多い。

 自我を正しく体感をして自覚することが大切であります。これが

「覚」「自覚」の大切なところです。公案禅による集中をしていくという

ことと教えを学んで冷静に自覚をしていくということと、この2つを

きちっと両輪のごとくにしていかなければ、公案禅、禅は間違った方向に

行ってしまいます。

 ですから、禅の修行というものは、そう簡単に一筋縄でいくものではない。

長い年月をかけて根気よく修めていかねばならないことを強調しなければ

なりません。

(平成28年12月7日 仏光録提唱 54:00)

2016年12月7日

明日12月8日は、お釈迦様がお悟りになった日です。

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<写真は、去年の成道会の様子です。>

 明日、12月8日は、成道会(お釈迦様がお悟りになった日の法要)です。

今から約2500年前、お釈迦様は、インド・現在のブッタガヤにある

インドボダイジュの木の下で「今、悟りを得られなければ、生きてこの座を立たない」

という固い決意をして坐禅をし、途中、心を乱そうとする魔羅の妨害にも屈せず

ついにこれを退け(降魔)、悟りをお開きになりました。

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 円覚寺では、明日、10時より仏殿にて、臘八大攝心(お釈迦様の降魔成道にちなんで、

12月1日~8日の期間行われる、1年で1番厳しい集中坐禅修行期間)を終えた

横田南嶺老師をはじめ、25名の雲水(修行僧)らが参列して、厳かな儀式が

行われます。
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 どなたでも参列することができます。

皆様のご来山を心よりお待ちしております。

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2016年12月6日

今日の円覚寺・紅葉状況④

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<法堂跡横参道から居士林方面をのぞむ>

紅葉もそろそろ最期の輝きといった時期になりました。
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<大方丈裏庭から僧堂方面をのぞむ>
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<白鹿洞脇参道から>

2016年12月6日

「新説・臨済の四料揀」 一日一語 127

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<法堂跡>

 横田南嶺老師が先日の遠諱法要で提唱されたことをまとめてみました。

 「臨済の四料揀」という教えがあります。

四料揀とは、一、奪人不奪境 二、奪境不奪人 三、人境俱奪 四、人境俱不奪です。

 (これを現実の生活に活かせるように解釈しますと)一つ目の「奪人不奪境」とは、

お寺にはいろいろな悩み事を抱えて相談に来る人がいる。いや、相談ではなくとも

いろいろな人がやって来る。そこで、まずは、自分を殺す。自分を奪って相手を

奪わないことです。自分を殺すとは、自分の意見や自分の考えをを全く出さずに

外の景色を見る。「ああ、良い天気ですな」や「この頃、シュウメイギクが咲いて

きましたな」と言ったり、または、相手の置かれている状況をことごとく認めて

あげて、聞いてあげる。

 今日、傾聴という言葉が使われていますが、こちらを殺して相手を活かして

よく理解をしてあげる。これが、「奪人不奪境」です。まず、お茶でも出して

ゆっくりと相手を認めてあげる。いきなり、お説教をしようとするから

問題が起こるのだと思います。

 次に二つ目の「奪境不奪人」です。もちろん聞くこと、傾聴をすることは

大事でありますが、それだけで終わったならば、救いになりません。

一時的に気持ちは、安らぐかもしれませんが、本当の解決にはなりません。

それこそ、今度は、こちらが主体となって、「それは妄想の世界ですよ」や

「あなたの思い違いですよ」「あなたのわがままの為に様々な苦しみを

作り出しているのですよ」など、お釈迦様の説かれた真理である、諸行無常

諸方無我を堂々と説いてあげる。

 三つ目は、「人境俱奪」です。「奪境不奪人」に留まっていては、単なる

お説教に終わってしまいます。そこで「人境俱奪」です。これは、禅たる

ゆえんでありましょう。「では、お互い坐りましょう」「お互いに坐って

我もない人もない、我も世界もないところにいっしょに坐りましょう」の世界です。

 明治の終わりから大正に活躍された岡田虎二郎という正座法を薦めた人が

いらっしゃいますが、この人は、お説教はせずに、心の病にかかっている人が

来るといっしょに坐りました。そうして、坐り抜いて、病を治したということが

伝わっています。禅の布教は、ここにあろうかと思います。我も世界もない

ところに俱(とも)に坐る。そこで初めて、本当の安らぎが出てくるんで

ありましょうし、禅の安心はここにありましょう。

 さらにそこにとどまらずに、四つ目の「人境俱不奪」です。

俱に成りきって坐ったならば、お茶を淹れてあげて、ゆっくりとお互いが

語り合う世界です。「人境俱不奪」の世界は、我も活かし相手も活かす。

「ああ、そうですか」とこちらの思いも聞いていただく、向こうのことも

聞いてあげる。人も境も活かす世界です。

 こうしてみると、為人度生の場においても、四料揀は大きな意味があるのは

ないでしょうか。

 私たちは、臨済宗と称しておりますが、果たして、臨済の修行とは何であるか?

何を修行し何を修めるのであるか?です。

 そして、臨済の教化とは何であるか?こういうことを学んでいく上において

臨済録は、お互い、大いに学んで活かしていけるものであります。

 そうでなければ、臨済宗の看板を掲げている意味がないのではないかと

思います。どうぞ、この大遠諱をきっかけにして、さらに一層、臨済の禅の

奥深いところを学んで一層研鑽していただきたい。

 臨済の修行、日々の修行、禅僧としての修行においても、また、それぞれ、

和尚様方の教化の場においても、臨済の禅を大いに鼓揚していただきたいと

願うところでございます。

(平成28年10月28日 大遠諱 臨済録提唱 26:40)

2016年12月5日

第2回 夜の初心者向け坐禅体験会 参加者募集中

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居士林(円覚寺の在家修行道場)山門
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居士林堂内

 居士林(円覚寺の在家修行道場)では、夜の初心者向け坐禅体験会を新設します。

 最近、世間では、仏教冥想に対する注目の高まりか、居士林で毎週土曜日に開催

されている土曜坐禅会・初心者の部(13:20~14:20)には、毎週100人を

大きく超える方々が参加をしている現状があります。

 そこで、居士林では、夜間にも初心者向けの坐禅体験ができる会を設けようと思いました。

 この坐禅体験会は、2時間というゆったりとしたプログラムで、呼吸禅、立禅、臥禅、

歩行禅、椅子禅、発声禅、坐禅といった内容となっており、事前に予約した少人数の方に、

一人一人と向かいながら、初心者の方が段階的に学べるように心がけて参ります。

 第2回目は、

日時: 1月17日(火) 19:00~21:00

    月に一度以上の割合で開催する予定です。

    今後のスケジュールについては、当「居士林だより」にてお知らせします。

場所: 宗務本所2階(12月~3月) 居士林(4月~11月)

定員: 12名

申込み:engakuji.kojirin@gmail.com  宛てに

    ①氏名 ②住所 ③電話番号 ④年齢 ⑤職業 ⑥坐禅歴 ⑦参加動機を記入して

    お送りください。

参加費: 大人 1000円 学生・子供 500円

  * 夜間開催ですので、会社帰りのサラリーマンや学生・子供の習い事としても参加できます。

  * 定員に制限がありますので、応募人数を超えた場合は、諸条件を考慮して、キャンセル

   させていただく場合もございます。ご了承ください。

  * 冬季期間中(12~3月)は、居士林には、暖房器具がない為、暖房器具のある

    信徒会館2階で行います。暖かい会場にて行いますので、安心してご参加ください。
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<信徒会館2階>

  * 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2016年12月5日

「タワシで磨く」 一日一語 126

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<円覚寺専門修行道場で行われている臘八大攝心(1年で一番厳しい1週間に及ぶ

集中坐禅修行期間)も中日をすぎました。>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 公案(禅の問題)というのは、無に対する何か答えがでるというものではない。

「ム~ム~・・・」と(腹圧をかけながら呼吸に集中することを)朝から晩まで

やることによって自分の心の中を摩擦するのです。自分の心の中をこの無の字で

磨いていく。

 「公案というのは、石鹸みたいなものだ」という言葉がありますが、それで

自分の心を磨くのです。タワシみたいなものだと言っても同じです。

タワシのようなもので「ム~、ム~・・・」と(心の中で)やっていく。

その無がどうこうというのではない。その無の字で、一生懸命、力を入れて

自分の心の中を磨いていく。

 ここで大切なことは、力を入れないと磨いたことにはならないということです。

私たちの心というのは、業障(心の汚れ)が染みついている。それは、スポンジ

みたいなもので軽く(表面を)なぜたって取れやしない。

 何べんやったって、何年やったって、力を抜いてやったら、染みついたもの

こびりついたものは取れないのと同じです。全身の力を持って「ム~、ム~・・・」と

やってこそ、また、爪でかきむしるようにやってこそ、こそぎ落とすことできるのです。

 そして、心の中を摩擦していく、業障を払いのけていく、自分の心の汚れ、染みついたものを

こそぎ落としていくことで2つの心地よい心境を得ることができる。

 その2つというのは、公案に参ずる気力とその公案を捨てる気力です。

公案に参ずる気力というのは、無字の中に自分の持てるものを全部込めていく

大きな気力です。そして、公案を捨てる気力というのは、無字一枚に成りきった

ところで、今度は、その無字を、かためたものを全部丸ごとポイと捨ててしまう

気力です。

 (無字一枚になっても、その心境に執着してはいけない)それは、掃除機で吸い取った

ごみを大事に抱えているような、愚かなことです。それをポンと捨ててみて「あー、なるほど、

この部屋は広かったなあ、きれいなところであるなあ」とわかるのです。

(平成28年12月5日 仏光録提唱 41:50)

2016年12月5日

今日の円覚寺・紅葉状況③

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<法堂跡参道から大方丈方面をのぞむ>

円覚寺境内もだいぶ秋が深まり、晩秋から初冬の変わりの季節に

入っています。
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<白鹿洞脇参道より>
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<白鹿洞より開基廟をのぞむ>
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<如意庵階段より妙香池をのぞむ>

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<山門広場より仏殿方向をのぞむ>

2016年12月4日

「公案という刀」 一日一語 125

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<仏殿前広場>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

公案(禅の問題)について、鈴木大拙先生は、ご自身も深く公案に参ぜられて

それから、先生は学問もありましたから、公案についての意義を上手に表現して

くれています。

 「趙州の無字や庭前の柏樹子(という公案など)は、いかにもくだらないことのようで、

単なるなぞのようにも見える。こんななぞのどこに仏教があるのか、どこに禅が

あるのかと言われよう。しかし、それは表面的な考えである。

 隻手の声(という公案)がわかれば、宇宙存在の大問題が自ら解けるのである。

これらの公案はすべて常識的な考えを打ち払う刀である。」

 大拙先生は、こういう表現をされました。「私たちの常識的な考え方を打ち払う、

断ち切るという刀である。しかし、この振り上げられた刀を外からばかり

見ていては、刀はわからない。刀自身にならなければならない。

 隻手の声を聞こうとしては、聞かれない。隻手になることによって

それを聞かれる。刀で斬られることを恐れて、その斬る刀そのものを自分に

ひきたぐることをしないから、公案の意味がわからない。

 とにかく、参禅をする、禅の修行を始めるからには、今まで持っていた考え

今までやってきた考え方というものをどうしても、徹底的に捨てなけれならない。

それには、公案という刀が必要である。

 どうして公案の刀がそういうものを斬ることができるのか?そのような考え方をも

断然と捨てなければならない。そんな批判は、今までの考え方でのみ成立するもの

であって、そのような考え方では、禅をやることは到底不可能である。

 それで刀そのものにまず成りきることが大事である。これを正念工夫、三昧、

成りきるというのである。私たちは、いつも過去や未来のことで縛られていて、

自由を得ない。刀で斬られることばかりを考えて斬ることを知らない。

 斬る立場は、斬る立場でこそ自主自由が出てくる。向こうを見ている限り

自由は得られない。縛られまいとするのであれば、こちらから縛る方に

転ずるのが早道である。」

 公案をやったものには、なるほど大拙先生は、上手い表現をしてくれていると思う

ところです。

(平成28年12月4日 仏光録提唱 17:21)

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