2016年11月30日

今週末(12月3、4日)、どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

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<円覚寺専門修行道場山門前>

 円覚寺専門修行道場では、明日から8日まで、1年で1番厳しい集中坐禅期間にあたる

臘八(ろうはつ)大攝心となります。臘八大攝心では、お釈迦様の苦行にちなんで

修行僧は、1週間の間、横になることが許されないでひたすら坐禅をします。

 横田南嶺老師をはじめ、25名の修行僧、居士・禅子(在家修行者)が

禅堂に籠り修行に精進する1週間です。
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<円覚寺境内、紅葉のピークを迎えています。>

 さて、今週末(12月3、4日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

12月3日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めの40分で、呼吸禅、立禅、発声禅など

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに10分間の坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

お子様、親子でも安心してご参加いただけます。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)
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<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

 12月4日(日)

●8:05~9:30 日曜坐禅会 場所 大方丈

8:05~8:20 坐禅

8:30~8:50 坐禅 

9:00~9:20 坐禅 終了後 片付け

 (今回は、僧堂攝心中の為、横田南嶺老師による提唱は、ございません。)

という内容です。初心者の方には、8:10~20の間で、足の組み方などを説明しますので、

 必ず、時間までにお越しください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2016年11月30日

臘月・12月の詩

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横田南嶺老師揮毫。坂村真民さんの詩。

実物は、円覚寺山内・黄梅院の山門下にある掲示板に貼ってあります。

2016年11月25日

「そんなものは、どこにも見つからない」 一日一語122

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<今日の洪鐘参道入口にあるイチョウ>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

見る時は、何者(主体)が見ているのか?ものが聞こえてくる、

聞いている時は、何者が聞いておるのか?寒い、冷たいを感じる時に

何者が感じておるのか?あるいは、日常の忙しい時に、ものに心が

奪われてしまう時、または、外の世界に心が引きずられてしまう時、

何者が奪われるのか?何者が引きずられていくのか?これを24時間

疑う、これが内に向かう修行です。これが諸仏の行われた道です。

 外に向かうか、内に向かうかという心の向けようによって

外に向かえば迷いを引き起こしていく。平等と差別(しゃべつ)と申します。

外に向かう、これが差別の世界です。外に向かってものを見れば、柱あり、

敷居あり、畳あり、男あり女あり、老人あり、青年あり・・・と外に向かえば

万般、差別の世界です。

 無になるということは、(この差別の世界を全部否定していこうとすると

これはたいへんなことでありますが、)くるりと向きを変えて、聞く者は

何であるか?見ている者は何であるか?と内に向かうことであり、そこが

平等の世界です。

 『抜隊得勝禅師法語』に「一切の声を聞く主(あるじ)は何者であるか?

これを求めていけ」とあります。その何者か、それこそ、諸仏衆生の本源、

仏様の一番の根本である。諸仏と衆生との隔てのない根本であると説かれて

います。

 この声を聞くものは何者ぞと、立っても居ても坐っても、これを求めていく。

こうして、内にむかってみれば、これは平等の世界です。

 抜遂禅師は「聞く者も知らず」その聞いているもの、そんなもの、見当たらない。

と結論を言っています。聞く者(主体)は、何者ぞという意識すら尽きてくる。

それでも、いよいよ、深く聞く者は何者ぞと求めていくと、聞こえてくるものと

聞いている者との隔てがなくなって、我(われ)というものはない、つまり、

聞いている者を見つけようとしても、そんなものは、どこにも見つからない

という結論になる。

 この心が、ただ、広々と十方世界に広がっている。しかも、十方だ世界だと

名付けるものもありはしない。これを平等の世界といい、仏心に世界とも

呼んでいるものであります。

(平成28年11月25日 東嶺和尚法語 11:00)

2016年11月25日

今日現在、円覚寺の紅葉状況①

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<居士林から仏殿方面をながむ>

昨日、降った雪は、すっかり融けて、青空の元、鮮やかな紅葉の風景と

なりました。今週末が一番の見頃を迎えると予想されます。

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<山門脇から>

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<法堂跡横の参道から居士林方面をながむ>
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<大方丈脇参道から妙香池方面をながむ>

皆様、この週末は、紅葉観照とともにお寺にお参りください。

ご来山を心よりお待ちしております。

2016年11月25日

今週末(11月26,27日)、どなたでも参加できる円覚寺の坐禅会

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 今日の居士林山門の様子です。今週末が紅葉の最も見頃となると予想されます。。

 さて、今週末(11月26、27日)の円覚寺でどなたでもご自由に参加ができる行事の紹介です。

11月26日(土)は、

●13:10~14:20 土曜坐禅会 初心者の部 場所:居士林

 初心者を対象とした坐禅会です。初めの40分で、呼吸禅、立禅、発声禅など

準備体操にあたる瞑想をして、心を落ち着けます。それから、体の動きを止めて

静かに10分間の坐禅をします。最後に5分で質疑応答という流れとなっています。

お子様、親子でも安心してご参加いただけます。

●14:40~15:40 土曜坐禅会 経験者の部 場所:居士林

20分の坐禅を2回と最後に15分、般若心経、延命十句観音経などのお経を読みます。

(経験者の部では、足の組み方などの説明は、ございません。初めて坐禅をされる方は

なるべく、初心者の部に参加して初歩的なことを体験してくださいますように。)
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<土曜坐禅会が行われる居士林堂内>

11月27日(日)は、 

●9:00~11:00 日曜説教坐禅会(円覚寺派布教師による法話と坐禅) 場所 大方丈

 老若男女が集うお説教と坐禅会です。初めての方も多く参加されています。

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ー日曜説教坐禅会が行われる大方丈ー

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

2016年11月24日

「見ている者(主体)は何者か?」 一日一語121

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<うっすらと雪化粧した妙香池>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

迷いというのは、見たものや聞いたことなどに心をかき乱されることです。

菩薩の修行というのは、ものを見たならば、見る者(主体)は何者であるかと疑う。

何か音や声を聞いたならば、その音を聞いている者(主体)は、何者であるか

疑うことだと東嶺和尚は説かれています。

 『臨済録』には、「你(なんじ)、祖仏を識(し)ることを得んと欲(ほっ)すや。

你が面前聴法底これなり」とあります。仏様とは何かと知りたいか?それは、

今、私の目の前で、ここで話を聴いている者(主体)であると臨済禅師は説いています。

 仏とは、自分の外にあるのではない、この話を聴いている者(主体)が仏なのです。

 また、『臨済録』には「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す」

とあります。

 臨済禅師は、仏様を「無位の真人(むいのしんいん)」と表現されました。

世間の地位や学歴や財産のあるなしのどによって色付けされることのない本当の人、

素晴らしい人、これが仏であると説かれました。

 「常に汝ら諸人の面門より出入す」というのは、面門とは感覚器官です。

目でものを見て、耳で音を聞いて、鼻でにおいを嗅いで、舌で味わって、

身体で感じて、心であれこれと思う。

 では、その見ている者(主体)、聞いている者(主体)は、何者であるか?です。

耳や肉体や内臓が聞いているのでない、それは、ただの道具にすぎません。

この何者(主体)が聞いているのか?を疑うのです。

 臨済禅師はそこで「これ你が目前歴歴底、一箇の形段(ぎょうだん)勿(の)うして

孤明なる、これ這箇、説法聴法を解す」と説かれます。目の前で、はっきりしているが

何の姿・形がなく、それでいて一人明らかなるものがある。それが今、話を聴いている。

それに気が付いた者は、仏様と別物ではない。

 その何の姿・形のないものは、どういうものか?

臨済禅師は、「十方に通貫す」と説いています。こんな小さな体の中に

おさまっているものではない、十方世界に満ち足りたものであると。

 それは、姿・形はないが、この目でものを見ている、耳で聞いている

鼻でにおいをかいでいる・・・。それは、いったい、何者であるか?と

自分の心の内に向かって、心の向きを(外側から)180度回転させる。

 「寒いな、今日は冷たいな、かなわんな・・・」ではなく、

その寒いと感じている者(主体)は、何者か?何が寒いのであるか?

と自分に問いかけることです。

(平成28年11月24日 東嶺和尚法語 26:00)

2016年11月24日

初雪と紅葉

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<妙香池横階段から>

 今日は、関東では、初雪となり、円覚寺境内もうっすらと雪が積もりました。

この時期の雪は珍しく、昨日の風景からは、一転して、

「紅葉(もみじ)は紅(くれない)、雪は白」のコントラストの風景が映えました。
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<如意庵階段下から妙香地方面をのぞむ>
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<僧堂(専門修行道場)万年門前>

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<仏日庵前から妙香地をのぞむ>
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<妙香地参道から仏殿方向をのぞむ>

2016年11月23日

菩薩 「一日一語120」

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<仏日庵前から妙香池方面を眺める>

 横田南嶺老師が大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 心の修行が進んでくると声聞、縁覚の上が菩薩、菩提薩埵(ぼだいさった)となります。

菩提は、悟り、薩埵は、命あるもので、菩提を求める者というのが本来の意味です。

 そこで、もともとは、お釈迦様の前世、お釈迦様が悟りを開く前は、悟りを

求めて一生懸命、修行をしていた、これを菩薩と言いました。

 お釈迦様の頃の仏教では、その意味だけです。

 ただ、菩薩というのは、大乗仏教になると、別の意味になってきます。

上座部仏教では、悟りを求めて煩悩を断じて、阿羅漢になったら、

もう二度と迷いの世界に戻って来ることはない。それで終わりです。

 ところが、大乗仏教になって、それではいけない、そこで終わりにしない、

まだ、この世の中で悩み苦しんでいる人々を救わなければならないと考え

本当の悟りとは、自分自身の迷い苦しみを断絶するだけではない、

この世の人たちのすべての苦しみを滅するまで続くのだと願ったのです。

これが大乗仏教の大きな転換点です。

 上座部仏教の言えば、堕落と言われるかもしれませんが、我々、大乗の立場から

言えば、仏教の大きな発展であります。

 大乗仏教では、観世音菩薩、地蔵菩薩・・・とたくさんの菩薩がございますが、

悟りを得てそれに安住して終わりではなく、なお、苦しむ衆生の為に姿を現して

救っていこうという無限の行願であります。それを表すために菩薩が説かれるように

なっていったのでした。

(平成28年11月22日 東嶺和尚法語提唱 30:10)

2016年11月23日

「今の禅宗の見直すべきところ」 一日一語119

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<僧堂・万年門前>

 横田南嶺老師が今日の大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 白隠禅師の弟子の一人である東嶺和尚は、「三乗の行門、皆大乗の輔翼なり」と

説かれています。仏教の発達というものは、今までの教えを否定して捨て去るもの

ではありません。今までのものに積み上げて積み上げてやってきたものです。

 という立場を、東嶺和尚は、はっきり示しています。今までの説は間違いであった、

それを捨てよとは言わない。三乗の行門は、大乗の教えを学ぶための、空を飛ぶ助け

になる翼である、本体は、大乗門でありますが、大乗門だけでは、空を飛べない。

その空を飛ぶ為の翼となるのが、三乗(声聞、縁覚、菩薩)と呼ばれるような

修行をやることによって、大乗の教えがなお一層すぐれてくる。

 声聞だ縁覚だといって切り捨てるものでないというのが、東嶺和尚の言わんと

するところで、そして、こういう考え方こそが仏教の発達にふさわしい教え

なんです。

 禅は、優れたものであるからと言って、それでは、華厳経あたりは、一番の

最上乗の教えですから、だからと言って、法華経はいらない、声聞、縁覚や

上座部仏教なんかの教えは、あんなものやるものではないと切り捨て去るものでは、

決して、ありません。

 肝腎なのは、今までの仏教の蓄積あります。上座部仏教でやってきた教えも

声聞で説かれてきた四諦の教えも四念処、四波羅蜜にしても、十二因縁にしても

それから、菩薩の六波羅蜜にしても、みな、これは、禅の教えを支えていく

基盤であり、土台です。

 今日の禅宗の大きな問題点は、この土台の部分を捨ててしまっていることです。

ただ、僧堂(専門修行道場)に行って公案(禅の問題)だけをすれば、それでよい

思っている。

 それ以外の教えは、劣ったものであるから必要ない。「不立文字」を良いことにして

経典なんか読んでいるから理屈っぽくなる、そんなもの、読まなくてよい。

「ムームー」やっていれば良いのだ・・・という風潮になりつつあるのが現状です。

 東嶺和尚が言うように「三世の諸仏歴代の祖師も、皆三乗の行門より法成就には到るなり。」

です。この積み重ね、この土台が広いからこそ、しっかりしているからこそ、

深い禅の教えに到ることができるのです。

 それを「一超直入如来地」という、これも尊いことではありますが、

それを強調するあまり、土台を捨てて、自分勝手になったり、わがままになったり

頑固、無知蒙昧になったりしてしまってはいないでしょうか。

 禅の教えは、土台の上にあるという、土台を無視しては過ちを犯しかねない

危険がにあるということを自覚しなければなりません。

(平成28年11月23日 東嶺和尚法語 39:20)

2016年11月22日

人間に生まれたものだけが・・・ 「一日一語118」

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 <妙香地前から仏殿方向をのぞむ。>

 横田南嶺老師が大攝心で提唱されたことをまとめてみました。

 仏教では、我々、人間界の者だけが仏道を行ずる、六道輪廻からのがれることが

できると説いています。地獄にいると仏教の教えを聞くことができない。

餓鬼・畜生・修羅の世界にいても仏教に目覚めることはできない。

 天上界は良さそうに思われますが、あらゆる楽しみが満たされ苦痛のない

世界ですから、仏道を求める心が生まれて来ない。

 人間に生まれたならば、地獄ほどの苦しみはないが、しかし、思うように

いかない苦しみの世界でもあるので、人間に生まれたものだけが、

この六道輪廻をのがれる修行をすることができる。それで「人身受け難し」

なのです。

 仏教の基本は、苦しみと煩悩を滅して解脱をすることです。

この現実世界を楽しく生きようとか、幸福な暮らしをしようというのと

仏教との決定的な違いは、ここにあります。六道の苦しみの世界から

解脱をする、それが本当の安楽であるという教えであります。 

 ですから、仏教をこの現実世界をいかに生きるかと変換してしまうのは

本当は、誤りであります。

 しかし、教えを説く場合は、段階がありますから、いっぺんに解脱ということでは

難しいということで、徐々に説いていく面がありますが、目指すところは、この現実の

苦界から解脱することを求めるのが、お釈迦様の本当の教えなのです。

(平成28年11月21日 東嶺和尚法語提唱より 27:50)

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