2015年12月30日

年末年始のどなたでも参加できる行事

年末・年始の円覚寺のどなたでも参加することができる行事の紹介です。

●12月31日 14時  除夜念誦「佛殿」→「舎利殿」

円覚寺派管長横田南嶺老師をはじめ山内和尚、雲水が参列し読経をします。
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-仏殿 除夜念誦-
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-舎利殿前にて庭間触礼(ていかんそくれい)-

●16:00にいったん総門は閉門となり

●23:00に再び開門されます。

●23:50頃から①国宝洪鐘と②僧堂(専門道場)の2カ所で除夜の鐘をつき始めます。

一般の方で鐘をつきたい方は、舎利殿のある僧堂にお越し下さい。

 毎年、人気で23時過ぎ頃から、鐘をつきたい方が僧堂の門の前に

ならび始めています。去年も長蛇の列が出来ていました。確実につきたい方は

お早めに。

①12月31日 23時50分頃 国宝洪鐘で除夜の鐘→弁天諷経
 
            
(ただし、国宝洪鐘は一般の方はつけませんが間近で 聞くことができます。

数百年を経た大鐘の響きは、歴史を感じさせてくれます!)

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-弁天堂 国宝洪鐘のよる除夜の鐘-

②12月31日 23時45分頃 「舎利殿のある僧堂」にて除夜の鐘
 
     
(こちらはどなたでもつくことができますが、毎年混み合いますので

108枚の整理券を事前に配っています。 雲水さんが鐘の四方に立ち

お経を読んでいる中でだいたい4人一組になってつきます。)

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-僧堂 除夜の鐘-

●1月1日 午前2時半  僧堂では新年の儀式、終わって朝課

    
(今年始めのお経を読みます。普段は入れない僧堂に 年末・年始は入れます。

雲水さんがお経を読んでいる姿を拝見することができます。)

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-僧堂 新年初めの朝課(読経)-

●1月1日 6時 祝聖「佛殿」→大般若転読「大方丈」(*例年と時間が変わりました)

円覚寺派管長横田南嶺老師をはじめ山内和尚、雲水が参列し読経をします。

(大方丈での大般若転読が6時20分くらいに始まります。

 最初から大方丈にて待っている方が多いようです。)

●1月2日 6時  大般若転読「大方丈」(*例年と時間が変わりました)

●1月3日 6時  開基廟回向「仏日庵」→大般若転読「大方丈」(*例年と時間が変わりました)

大般若転読は、皆様の今年一年の無病息災を祈願する儀式です。

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-大方丈 大般若転読-

 年末・年始は普段は一般公開されていない国宝舎利殿に近くまでいくことができ、

夜はライトアップされています。大方丈での大般若転読は、どなたでも参列することが

できます。
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-僧堂 舎利殿のライトアップ-

 また、国宝洪鐘のある弁天堂では、お正月の3が日も、新年が良き年となりますように

祈祷太鼓による法要を受け付けています。詳しくは、↓
弁天堂 祈祷太鼓による法要受付 をご覧ください。

皆様のご来山を心よりお待ちしております。
           

2015年12月27日

僧堂 餅つき

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 円覚寺僧堂では、今日、午後5時頃から、毎年恒例の餅つきが行われました。

 横田南嶺老師や在籍する25名の雲水さん、和尚さんやその家族が集まり

午後8時半まで、2升×17蒸籠(せいろ)のもち米をつきました。
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 ①蒸かす前の蒸籠のもち米を火が通るように均等に広げる
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 ②釜にお湯をはり、もち米を蒸かしていきます。
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 ③蒸かしあがったもち米を四人一組で杵を押してこねていきます。
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 ④四人一組で「一!二!三!四!」の掛け声のもと、軽くついていきます。
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 ⑤そして、つき手と返し手の阿吽の呼吸のもと、「よいしょ!よいしょ!」の

掛け声の中、本格的についていきます。
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 ⑥つき終わったお餅は、こねながら、鏡餅などに形をととのえていきます。
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 子供たちも一生懸命、鏡餅を作ってくれました。
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 ⑦さらに、雲水さんがこねて形をととのえて、最後の総仕上げをします。
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 ⑧つきたてのお餅(四升分)は、その場できな粉、大根おろし、磯辺となり

みんなで美味しく頂戴しました。
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 ⑨こちらは、伸し餅です。

2015年12月26日

考え方、価値観が違う人とつき合う方法

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 昨日、今日と開催された冬季宿泊坐禅会(学生坐禅会)は、おかげさまで

無事に終了致しました。

 たいへん寒い中にもかかわらず、男性10名、女性8名が参加をされ、

冬の禅寺の生活を体験していただきました。

坐禅会が終わった後、横田南嶺老師と参加者全員との懇談会が正伝庵にて

行われ、参加者から様々な質問がなされ、南嶺老師がそれにお答えになって

いきました。その中の一つの紹介します。

学生:思想や価値観など自分と合わないと思うと人とどう向き合っら良いでしょうか?

老師:自分と違うんだと思えばいい。それだけだ。(一同笑い)自分の考えと同じような

   人間は一人としていない。みんな違うんだ。誰一人として同じ人間なんていない。

   皆、赤の他人の違う考えをしている。違う考えや価値観を同じにしようとするから

   争うんだ。「違うんだ!」と思えば(問題はそれで)終わりだ。

   いっしょにしようとするのが間違い。あらゆる間違いはそこだ。

   みな自分と同じようにしようとするから戦争が起こる。自分の考えと同じに

   させようというのが争いの種となるんだ。

   みな違う!と思えば(問題は)終わる。それが東洋の和ということだ。

   和ということは、違うものと同じに(いっしょに)暮らすということだ。

   最近、若い夫婦が「考えが違う」「価値観が違った」と言って離婚するけれど

   それは当たり前のこと。違うんだ。価値観が違うもの同士が(いっしょに)

   暮らすと思ってやっていくよりしょうがないだ。

   違うのよ。この世にある生き物、生きとし生けるもの何一つとして同じ

   ものはない。その違いを知るよりしょうがない。こういう違いがあると

   わかって理解して生きていくよりしょうがないだ。

   自分とどう違うか、違いを認識した上で折り合いをつけていきていくしか

   どうしようもない。

   私たちの修行だって、自分の思い通りの寺や組織、団体なんてあるわけがない。

   そこにいけば必ずいろんな考え方の人がいる。「俺の言うことを聞け!」という

   からけんかになる。

  
   (そういう時)あの人はこういう考えでやっているとよく理解したうえで

   自分はこういう風にやろうと思っていれば、うまく調和がとれる。

   あの人はああなんだから、ぶつからんようにやっていくしかしょうがない。

   (それが)ありのままにものを見ることだ。そのくらいのことがこの頃

   ようやくわかってきた。
 
   国と国との争いも宗教の争いでもみな自分の考えが正しいと、それを人に

   強要することから喧嘩となる。(みんな)違うんだと思えばいい。

   親と子だってそう。言うことを聞けと言ったって言うことを聞くわけがない。

  (親と子でも考え方、価値観が)違うんだから。この子にはこういう考えがあると

   思って理解して生きていくよりしょうがないんです。 

<一日一語 77>
 

2015年12月26日

一日一語 76

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結局、修行をした成果というのは、どれだけ慈悲の心、人のことを

思いやる心が深くなれるか、目指すところはそこだと思います。

 いくら長く坐禅をして、公案を透過したといっても、思い上がった

人間になっては困ります。慈悲の心というのはやはり究極ですね。

{月刊誌『致知』2013年 2月号 南嶺老師の言葉より}

2015年12月25日

一日一語 75

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 人間、お互い、いつ何時、何があるかわからない。いつ死を迎えるかは

わからない。その時になって、自分のこの体とあれこれと考えることだけが

自分のすべてであると思い込んでしまっているとそれが消えてなくなる時は

大きな動揺になってしまうでしょう。

 しかし、確かに自分の考えること感じることがなくなることは、さみしいし

悲しいことですが、しかし、心の深いところでは、お互いの本心は、

広い大虚空のようなものであって、本体はどこにもいかないし、

変わることもない。心の深いところでは、そうなんだと納得がいっていれば

そんなに慌てふためくこともないし、むしろ、慌てふためいても平気でいられる

ようになります。

 そんな深い心の安らぎというもの、落ち着きどころというものを

はっきりさせた上で、一生懸命、日常のことを努めていく。

 なるべく人様にはご迷惑を掛けないように、人を傷つけること、

命を殺めることがないようにと一つ一つ親切にしていこうと、

心の本体がわかればわかるほど、自然とそうなってくるものであります。

{平成27年5月31日 日曜坐禅会『伝心法要』提唱より}

(後記)

 今日、明日と居士林では、冬季宿泊坐禅会(学生大攝心)となります。

参加者の方は、17時までに居士林前に集合ください。居士林は、道場の為

暖房器具がありません。各自、防寒対策(ただし、コート、ダウン等は着用できませんが

中に着込むことは可)をしてきて体調を崩さないようにお気をつけください。

 宜しくお願い致します。

2015年12月24日

一日一語 74

  私が僧堂の修行をお終えた時、松原泰道先生に生涯保つべき言葉を

書いてくださいとお願いしましたら、「衆生無辺誓願度」と書いてください

ました。生きとし生ける者の悩み、苦しみは限りないが誓って救っていきたい

と誓う心。平たく言うと、いのちあるもの皆、幸せであるよう願う心、

他人様のために尽くす心です。私はこの言葉しかありませんと。泰道先生は

その言葉を決して失うことなく、身を修め続けてゆかれました。

 自分が何か得たい、特別な体験をして偉くなりたいというところには

魔がさしたり、思いあがったりしまう。商売も同じで、自分の儲けばかりを

追求する人は大した商売人ではないし、すぐにうまい話に引っかかったりします。

禅では魔境に落ちるといいますが、その程度のことだと思います。

 しかし、他人様のお役に立ちたい、世の中のために何か尽くしたと思って

商いをする人は、大きな仕事ができます。決して小さなものに引っかかりは

しないのではないでしょうか。

 泰道先生の生活を拝見しておりますと、自分のためなどということは、

これっぽっちもございませんでしたね。御仏の尊い教えを少しでも

多くの方々に広め、幸せな人生を送っていただきたいという一念を

最後まで貫かれました。

ですから私も、泰道先生の衆生無辺誓願度という火を受け継がなければ

ならないという思いで、日々身を修めております。

{月間誌『致知』2013年2月号 横田南嶺老師の言葉より}

blog-老窓は語る

<写真・文 投稿 ARAI様>

「今年も最後の土曜座禅会。ありがたく参禅させていただきました。

秋が終わり、座禅会が終わるともう夕暮れ。

ちょうど夕日を浴びた選佛場の側面の古い窓です。

灯がともったような暖かな姿は、何か古い経文のようにもみえました。

錦秋の境内もようやくひと段落し、これから始まる長く静かな冬の夜。

「老窓(ろうそう)は語る。」といったところでしょうか…」

2015年12月23日

管長 鍵山秀三郎先生と対談

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 昨日、横田南嶺管長は、円覚寺大書院にて、PHP社の対談記事の収録の為、

鍵山秀三郎先生と対談をされました。鍵山先生が人生で一番影響を受けた師である

佐光義民先生のお話や親交の深かった坂村真民先生や相田みつをさんとの

お話など横田管長が聞き役になって収録が進みました。

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 今回の対談は、出版社の方から「今宗教者で一番の人は誰か?」と聞かれた

鍵山先生が、横田管長を推薦したことで実現しました。

鍵山先生は、横田管長のことを、今まで様々に人に会ってきたが、

この人は、「清澄」であると直感的に感じた仰せになっていました。

<一日一語 73>

 方便という言葉は、もともとウパーヤといい、近づくという意味です。

仏様の世界に近づく。近づくというと距離、隔たりがあるように思われ

がちですが、端的に言えば、気づかさせてあげる為の教えということです。

最初に私たちは、仏様を拝みますが、(最終的には、)仏様と私たちと

一つであると気づかさせてあげることが仏道であります。

 私たちのこの心が仏心そのものであると気づかさせてあげようとして

様々な経典や語録や言葉があるのです。仏は人を救うといいますが

「救おうという気持ちがあればもうすでに違う」という言葉があります。

なかなか最初からそのようにわかることは難しいものです。

 そのことに気づかさせるために、何か困っている人があればできるだけ

手を差し伸べてあげようと教えます。

 最初、一生懸命何か人にして差し上げると向こうの人の喜んでくれる。

向こうが喜んでくれるのを見るとこっちも嬉しい気持ちになる。

 そんなところから、向こうとこちらと心が何か通じ合うことを感じる。

さらに私があの人に何かしてあげている気持ちでいたのが、よく考えて

みると、私の方があの人から何か素晴らしいものをいただいている気持ちに

なる。与えているつもりが、いただいているつもりになり、与えていることも

いただいていることも(いつの間にか)同じ一つの気持ちになってくる。

 こうしていると、我と相手との一体感を感じるようになり、それを

手がかりに一心の世界に近づいていかせる、これが方便の本来に意味です。

 一生懸命、仏様に手を合わせて、まるで向こうに仏様があると思って

いるけれど、段々とこちらにあるように思えてくる。いや、こちら自身が

仏様だと。さらには、あちらもこちらもない、一つながりだと思えてくる。

そして、もう仏という言葉すらいらないと思うようになるのです。

 仏心、一心の世界、一枚に世界に近づかせるために、様々な教えや経典が

あるのです。

{平成27年11月29日 日曜坐禅会『伝心法要』提唱より}

2015年12月22日

一日一語 72

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 仏心というと、えらい、人当たりの優しい、人間に都合の良いものだけが

仏心である思われがちです。どうも、社会の規範に合わないものは仏心でない,

悪人であるというものの見方をしてしまいます。

 大自然には、大地震もあれば、火山の噴火もあり、津波もあります。

これらは、人間にとっては都合の悪いものであると考えがちですが

大自然のままにそれぞれの姿があるだけなのです。

 また、私たちは、現代の社会規範に合わないから、あれは、病気であるとか

障害であると名前を付けて疎外しまうが、本当のところは、

様々な人の姿があるだけなのです。

 極端なことを言うならば、あなたが、「憎くてしょうがない!」「根畜生!」と、

思うのも、全部自然の姿であり、全部仏心なのです。ギャーギャー騒ぐのも、

かき乱すのも全部仏心です。

 人間の都合の良いおとなしいのだけが仏心と考えるのは、

人間中心のわがままなものの見方です。

 仏心の信心というのは、私たちの都合の良いものだけを仏心と

受け取ることではなくて、丸ごと仏心であると受け止めるのが

信心の究極です。

 そうかといって、自分の感情をそれほど無理に押さえつけることは

ない。気に入らないことがあったら、腹が立つのが大自然の働きです。

 そして、それが少しおさまった時には、「みな大自然の姿なんだ」

「仏心の姿そのものなんだ」とこのところだけをしっかりとおさえていれば、

泣こうが悲しもうが根畜生と思うが、みな仏心の中のことでおさまっている

いるはずです。

 この辺はたいへん難しいところではありますが、私たちの都合の良いもの

だけを仏心と考えてしまうのは大きな過ちであります。

 もちろん、現実に世の中というものはありますから、なるべく、人様に

迷惑をかけないのが道理であることは当然であることは言うまでもありません。

{平成27年12月20日 日曜坐禅会『伝心法要』提唱より}

2015年12月21日

一日一語 71

 春竹
<写真投稿 春竹様>

人間は、どうしても自分の都合の良いように思い図ってしまう。

これをやめるということは、「やめろ!」と言って、簡単に止められる訳ではない。

 自分がいかに自分中心のものの見方をしていたか、

いかに狭いものの見方にとらわれているかということを

自分で気がつくことが一番です。

それには、坐禅をして呼吸を調える。これも自分の都合でどうこうするのではなく

大自然の呼吸のままに呼吸している様子を静かに観る。

 私たちのこの心が大自然そのものであるとこうして観る。

 それも難しいのであれば、大虚空を見る。広い空間を見る。広い青空、

天を見ることです。空には、雲が湧いてくる、曇りも雨も嵐も

全部、大自然そのものであります。

 私たちの心も人間も、大自然そのままが「如(にょ)」として

そのままに表れている様子です。

 自分中心のものの見方、狭いものの見方を自分がいかにしていたかと

気づきさえすれば、それらは自然と止むのです。これが道理なのです。

{平成27年12月20日 日曜坐禅会『伝心法要』提唱より}

2015年12月20日

一日一語 70

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 夢窓国師はお若い頃からお慈悲深く、四十四歳の時に横須賀に泊船庵という

山庵を結んで、塔を建てられました。遠くからこの塔を目にするだけでも

よき縁を結ぶことが出来る、また、この塔の影が海に映れば、海の中を

泳いでいる魚たちも、塔の影に触れれば仏法とご縁を結ぶことが出来る

のだと願われました。・・・

{季刊誌『円覚』平成二十八年 正月号より}

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