2010年11月12日

大文字草

 11月12日(金)
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大文字草といいます。言われてみると上3弁が小さく下2弁は長く
「大」の字に見えます。
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黄梅院 海会塔向かって右の岩肌にひっそりと清楚な小花を咲かせています。

2010年11月7日

提唱 碧巌録49則

 11月7日(日)
老師が提唱されたことをまとめてみました。
 坐禅の修行は (良い意味で)バカになる修行だ。
時には とぼける所が出てくると奥が深い。
「強に逢うては即ち弱」
強くでてきた相手に対して まともに相手をすればお互い傷つけかねない。
そこで とぼけたふりをしてサラリとその場を切り抜けることも時には大切。
それが 本当の掛け合い。勝負をしないという手もある。
どっちが勝ったどっちが負けたというものを超えたところ。
 にんげん あんまり賢すぎても長持ちしない。
理論理屈をたたかわすのではなく 暖簾に腕押しじゃないが
ぼやーっととぼけているようなところに味わいがある。
 
 

2010年11月2日

宝物風入(ほうもつかぜいれ)

 11月2日(火)
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「明日から5日(金)まで宝物風入をやるのじゃ。虫干しをかねた円覚寺の宝物の展示じゃ。」
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「時間は 9時から3時半までだニャン。」
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宝物がこんな身近で見られるなんて驚き!
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開山 無学祖元禅師の衣です。修復されて光輝いています。
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「待っているぞよ。」
 

2010年11月1日

11月 掲示板

 11月1日(月)
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 黄梅院の掲示板です。
 毎月老師に揮毫をしていただいています。
 言葉は、坂村真民さんの詩からです。

2010年10月31日

仏手柑(ぶっしゅかん)

 10月31日(日)
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 指をたばねてちょうど手を合わせている形をしていることから
「仏手柑」というそうです。居士林裏の龍隠庵にいく階段の横に
なっています。

2010年10月29日

土日坐禅会 休会

 10月29日(金)
 明日、明後日の土日坐禅会は、台風の直撃が予想されるため休会となります。
なお、土曜坐禅会は行う予定です。
 宜しくお願い致します。
 居士林主事 合掌
 

2010年10月24日

僧堂攝心提唱 5日目

 10月24日(日)
 老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
 維摩経に 「道法を捨てずして しかも凡夫の事を現ずる」とある。
これは 悟りをしっかりと身につけた後 あえて世間の人の中に入って
現実に苦しみ迷っている人々といっしょに 自分も迷っているのと同じような姿を
して暮らしていくことだ。自分だけ澄まして坐禅しているのではいけない。
 また 維摩経に「不二の法門に入る」とある。
 生まれたとか死ぬとか二つに考えるのが迷い。
本当の悟りは「不二」である。坐禅をすると この二つに分けて考えるのが
ひとつにとけ合ってくる。私とあなた 善と悪 迷いと悟り
みんな分けて考えてしまいがちだが
本来 天地一枚 一つである!
 一つにとけ合っていくのが本当の坐禅だ。
空と海と この大宇宙と 天地一杯の命と 自分と一つにとけ合う。
一呼吸一呼吸一つにとけ合っていくようにゆったりと坐っていきたいものだ。 
 

2010年10月23日

僧堂攝心提唱4日目

 10月23日(土)
 老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
 結局 心というもの 意識の主体はこの体の内この体の外という区別が
あるわけではない。この虚空に天地に充満している。
誰の心 彼の心と別があるわけではなく みんな一つ心なんだ。
 その心には遠い過去からのあらゆる経験知識が全部蔵のようにたくわえられている。
そこから私たちそれぞれが脳神経を通して一部を情報されているにすぎない。
 心の大本を尋ねれば自分だ他人だの区別はなく天地一枚
一連なりに連なった一枚の命であることに気づく。
 たたかれてアイタタタ!と痛いと思うのもそこに
過去無量劫の命が全部そこに活きづいている。
 自分だ自分だという思いの源は 単なる思いこみで幻であり夢であったと
気づくこと。我なくなれば 天地の生き物がそこで初めて目がさめる。
 このいただいた生き通しの命 いかに活きてはたらいているか?

2010年10月21日

僧堂攝心提唱2日目

 10月21日(木)
 老師が僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
 本来 無我である!
これに徹するのが私たちの修行の一番の根本 すべてである。
我(われ)がなければ天地一枚の仏心である。
仏心以外のものは 蟻のひげ一本も見当たらない。
というのがお釈迦様のお悟りになったことだ。
 そのことに気づかないのが愚かさという。
気づかないで これがオレだ あいつが嫌いだ あいつが愛しいと右往左往する。
それを病(やまい)という。
 維摩経では その病を何とか救いたいとあえて自分も病になるところが書かれている。
人々が苦しみ病んでいるから自分も病になる。
例えて言えば わが子が病気になればその親も病気になるのと同じように。
それは慈悲の心による病である。

2010年10月17日

碧巌録48則その2

 10月17日(日)
 老師が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
  
ある本山の管長までお務めになった老師様の逸話です。
 90歳を過ぎた老師が、夜中に布団に起き上がって何かブツブツ言いながら
頭を布団にすりつけて礼拝(らいはい)を繰り返している姿をお弟子さんがたまたま見ました。
 お弟子さんがどういうことか後で老師に聞いてみると、次のようにお答えになったそうです。
 今日会ったあの人にああいうことを言ったけれど、あれはすまんことをした、
申し訳ないことをしたと懺悔(さんげ)の気持ちでしているのだと。
それも老師は何人も何人もいろんな人の名前を言いながら礼拝を繰り返していたそうです。
あの人には悪いことしてしまった、言い過ぎてしまった、力がおよばなかったと懺悔せずにはおれない
老師のお心が遷化して50年を経てもなお慕われている所以なのだろう。
 いろんな人と出会いふれ合っていくうちに、自分の何気ない一言が相手を傷つけてしまったり
また自分が気がつかなかったために相手がさらに苦しんだことがなかったろうか?と思うと
誰にもきっとあるはず。
 そういう時に自分のやったことに対して申し訳ない、すまんことをしたと
懺悔する気持ちが仏教では非常に大切なことだ。
 
 

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