安心の中の不安
浄土教の一派に、西山派というのがあります。
その開祖が証空という方です。
「証空」については『広辞苑』にも
「鎌倉前期の僧。浄土宗西山派の祖。内大臣源通親の猶子。法然に学び、師の晩年まで随従。のち西山の善峰寺に止住。著「観門要義鈔」など。西山上人。鑑智国師。(1177~1247)」と書かれているのです。
岩波書店の『仏教辞典』には、西山派について「現在は、西谷流と深草流の法灯だけが継承され、前者が西山浄土宗・浄土宗西山禅林寺派、後者が浄土宗西山深草派に分かれている」と解説されています。
その浄土宗西山禅林寺派の青年僧の集まりで講演をさせてもらったのでした。
浄土宗西山禅林寺派の本山は、永観堂さまであります。
青年僧の方で、私の講座などに熱心に出てくださる方がいらっしゃるのです。
その方のご縁でお招きいただいたのでした。
講演の始まる前に、講師の紹介をしていただくのですが、だいたいはプロフィールを読み上げるだけの場合が多いのですが、わざわざパワーポイントを作ってくださって丁寧にご紹介くださいました。
まるで私よりも詳しいのではないかと思うほどです。
私に与えられたテーマは「仏教における安心」というものでした。
私は登壇してまず申し上げたのでした。
今ここに大勢の和尚様がお集まりになっています。
この中で今一番不安なのは私であります。
まず和尚様方の前でお話しするのはやりにくいものです。
まして今日はよその宗派の皆様にお話をしないといけません。
しかも与えられた題は「仏教における安心」です。
たとえば、もしも皆様方が、禅宗の和尚様の集まりで「仏教における悟り」と題して話をするとしたらどうでしょうか、想像してみてください。
それほどたいへんな状況にあるのが今の私であります。
しかし、そんな私にもひとつはっきりしていることがあります。
今たしかに不安ですが、この不安は、九十分の講演が終わると消えるのです。
今どんなに不安であっても、九十分の後には、すっかり消えてしまって、やれやれと安心しているのです。
これはたしかなのです。
やがて消えると分かっているので、今の不安に耐えていられるのです。
このことはお互いの人生においても同じようなことが言えると思います。
この娑婆世界に生まれて生きるということには不安がついてまわります。
たいへんな思いをします。
しかし、この不安もたいへんな思いも、やがて終わるのです。
人生には必ず終わりが来るのです。
ただ、この講演のように、いつ終わるのかが定まっているわけではありません。
それでも終わりが来ることはたしかなのです。
その終わりは、浄土門で言えば、阿弥陀様に救われてお浄土に生まれるのです。
私どもの禅で申し上げれば、仏心の世界に帰るのです。
そのことが分かっていれば、それまでのことだと思って、辛抱できるのです。
そんなことを申し上げて話を始めました。
そのあと、いつも法話で行っているように皆で合掌して感謝をしました。
皆で手を合わせ目を閉じて感謝をします。
まずは、生まれたことの不思議に手を合わせて感謝します。
なにもなかったところに、父と母の出会いがあって、この世にこの命をいただきました。
このご縁の不思議に感謝します。
次に、今日まで生きてこられたことの不思議に手を合わせて感謝をします。
お互い一人で生きることはできませんでした。
両親はもとより、学校の先生や友達やいろんな方のお世話になって今日まで生きてこられました。
この不思議に手を合わせて感謝します。
そして最後に今日ここでお互いにめぐり会うことができたご縁の不思議に手を合わせます。
感謝をしてから、まずは私が今日に至るまでにいただいた、数々の不思議なご縁について話してゆきました。
小学生の頃に坐禅に出会ったことや、中学生の頃に朝比奈宗源老師の本に出会ったことについて話をしました。
朝比奈老師は、その著『仏心』の中で、
「つねにお互いがたよりにし、お互いの生活の根柢としている、意識そのものには実体はなく、その意識のつきたところに、永遠に変わらない、始めもなく終りもなく、つねに浄らかに、つねに安らかに、つねに静かな光明にみたされている仏心があるということを悟られたのであります。
しかもその仏心は悟られた釈尊だけでなく、人間という人間、いや人間ばかりでなく、あらゆる生ある者はみなこの仏心をそなえていると、悟られたのであります。つまりこの悟りによって、釈尊は自己の生命の問題を解決されたばかりでなく、すべての生物の生命の根本をも解決されたのであります。」
とありますように、私たちは皆仏心を具えているのです。
仏心を具えているというと、この身体の中のどこかにおさまっているかのように感じますが、そうではありません。
朝比奈老師はさらに、
「私どもは、仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引きとるのでありまして、仏心からはずれて生きることも、仏心のほかに出ることも、できないのであります。たとえれば、私どもは仏心という広い心の海に浮かぶ泡のようなもので、私どもが生まれたからといって仏心の海水が一滴ふえるのでも、死んだからといって、仏心の海水が一滴へるのでもないのです。」
と説かれています。
私たちは仏心の中に生まれ、生きて、息を引き取るというのです。
そこから、柳宗悦先生の『南無阿弥陀仏』にある「心偈」の言葉を引用しました。
「ドコトテ御手ノ真中ナル」という言葉です。
柳先生は「『御手』というのは、仏の御手でも、神の御手でも、菩薩の御手でもよい。私が何処に在るも、何処を向くも、居るその個所が、御手の真中であるというのである。」と説かれています。
私たちは仏心の真ん中にいるのです。
さらに「吉野山 コロビテモ亦 花ノ中」という言葉も紹介しました。
「いおうとする心は、文字通りであるが、この暮らしが幸いな日々の暮らしなのだと分からせて貰うには、きっと幾曲りかの険しい坂道を通らねばならぬ。考えると、ころびつづけの身ではあるのだが、実はころぶその所が、花の上なのである。立とうが、座ろうが、つまずこうが、倒れようが、どんな時でも処でも、悉くが花の中での出来事に他ならぬ。」と書かれています。
そしてご縁をいただいてこの講演を務めさせてもらうことになり、不安の中にいましたが、それもまた仏心の中のことだと思うのです。
仏心の中という、安心の中の不安だったのです。
いよいよ終わりの時間が来て、「これで私の不安も解消されます」と言って話を終えたのでした。
横田南嶺