山が崩れる
先日湯島の麟祥院での勉強会で問題になったことであります。
いつものように小川隆先生の『宗門武庫』のご講義を拝聴しました。
宗門随筆と言われる書物で、いろんな祖師の逸話が載っているのです。
前回に続いて恵杲禅師の話であります。
恵杲禅師は、のちに法雲寺に住するようになりましたが、若き日、行脚をしていて、金陵円通寺の円璣禅師の下で修行していました。
円璣禅師から与えられた公案は、趙州和尚の投子和尚との問答でした。
趙州和尚が投子和尚に「死に切った人が活き返るとはどうか」と問います。
「大死底の人、却って活する時、如何」という問いです。
投子和尚は、「夜行を許さず、明に投じて須らく到るべし」と答えました。
夜は通行禁止だが、夜明けには向うに着いておらねばならぬという意味です。
ここのところが、私など、明るくなったら出かけなさいだと思っていたのでした。
「到る」ですから、目的地に着いていなければならないのです。
この問答の意を問われて恵杲禅師は、「あまりに深きご恩、とても言葉では表せませぬ」と答えます。
円璣禅師は、この答えを絶賛しました。
そして数日後、恵杲禅師を抜擢し、住持に代わって説法させました。
ところが、恵杲禅師は、言葉につまってしまい、魯鈍なさまをさらしてしまいました。
大勢の方から笑われるという失態を演じたのでした。
恵杲禅師は恥じ入るばかりです。
しかし翌日、修行僧一同のための茶礼が催され、卓上には茶器が並べられていたのですが、恵杲禅師は、うっかり茶器をひっくりかえしてしまいました。
茶匙が床に落ちて、チャリンチャリンと跳ねたその刹那、恵杲禅師はハッと気がついたのでした。
それ以後、恵杲禅師の機鋒は迅速となり、それに立ち向かえる者はいなくなったという話でした。
その後、真浄克文禅師のもとに行った恵杲禅師は、「心は虚空界に同じく 示せば虚空法に等し 虚空を証得る時 是も無く非なる法も無し」という「祖師の偈」を看て、からりと大悟しました。
このあたりまでは、内容はそれほど難しくもないのです。
そのあとのことです。
恵杲禅師が一院の住持として世に立ってから、定例の説法でも不定期の説法でも、常に次のように豪語していたというのです。
それが「このわしは、紹聖三年十一月二十一日、“心”の禅を悟ったのだ」。
「このわしは、熙寧三年、鳳翔府の役所で僧として登録された。
その年、その近くの華山で、一十八州が陥没した。それにひきかえ、お前らのような小僧っこどもには、ナスとヒサゴの別さえ分かるまい」という言葉です。
のち、恵杲禅師は勅命を奉じて都の法雲寺の住持となりました。
その開堂の日、宮中の使者がやってきて、皇帝陛下からの賜りものの香をささげられました。
そして、語録の献上を求められたのでした。
その時、寺には覚範恵洪禅師という文筆に長けた禅僧が在籍していたので、恵杲禅師の語録の編纂を頼みました。
自分の語録を編んでくれたのですが、「生死にカタをつける禅なら、このわしの領分。だが、綾錦のごとき華麗なる美文、言わずもがなのムダ話とくれば、これはもう、わが恵洪どのを置いてほかにない」と言ったというのです。
ずいぶん失礼な話であります。
しかし『宗門武庫』には、恵杲禅師は「日ごろ、諸方の禅者たちを丸呑みにするほど気宇壮大で、世の人々に対しては、まるで子供あつかいだった。おおかた、得た悟りが大いに人にまさっていればこそ、かくも大胆なふるまいができたのであろう。」と述べられているのです。
問題は、「和尚(われ)、熙寧三年、文帳、鳳翔府に在いて供申す。当年、華山の一十八州陷了(おちい)れり。你輩、茄子と瓠子と那裏にか知るを得ん」という言葉です。
小川先生は、「このわしは、熙寧三年、鳳翔府の役所で僧として登録された。その年、その近くの華山で、一十八州が陥没した。それにひきかえ、お前らのような小僧っこどもには、ナスとヒサゴの別さえ分かるまい」と訳されていました。
このことを常に豪語していたというのです。
小川先生は綿密な考証により、『宋史』巻67に「熙寧五年(一〇七二)九月の丙寅の日、華州の少華山の前面で、阜頭峯から八盤嶺を越え、谷に至るまでの一帯が、大きく崩れ落ちた。山地は東西、南北にわたって広範囲に崩壊し、大地は裂け、土砂が盛り上がって丘のようになった。その盛り上がったところは、それぞれ高さが数丈にも達し、長く連なって、まるで堤防のようであった。
この山崩れによって六つの集落が埋まり、被害を受けた家は数百戸にも及んだ。樹木も家屋も、残ったものはなかった。」という意味のことが書かれていることを突き止められました。
さすがだと思いました。
大災害であります。
このことを豪語するというのはどういうことか、考えてもなかなか理解できないのであります。
小川先生は、「古来、地震や山崩れは、聖者の出現や死去、正法の開示などにともなう天地の感応の一種と考えられていた」と推察なされました。
実際に恵杲禅師が大悟したのは、紹聖三年ですので、ここで説かれる熙寧三年とは隔たりがあります。
しかし、これは自身の大悟と関連づけていることは確かであります。
自身の大悟の経験が、古来から聖者の出現に現れる奇瑞として説かれたのかとも思われます。
また自身の大悟が、そこらの小さな悟りではなく、あの華山が崩れ、大地が震動したほどの一大事なのだと言いたかったのかとも思います。
それゆえに「お前らのような小僧っこどもには、ナスとヒサゴの別さえ分かるまい」と豪語したのだとも受けとめられます。
さらに私の憶測でしかありませんが、この華山が崩れるということを、禅で説く「破家散宅」の意にとって、「自分」というものを中心にして、是非・得失・迷悟・凡聖を分けていた、その世界そのものが崩れたのだと取ってみてはどうかと思ったのでした。
そう考えてみると、このことはまさに、はじめに問題となった「大死底の人、却って活する時」にも相応します。
華山が崩れたというのは、もともとは実際にあった大崩落を踏まえた表現なのですが、禅の立場から味わえば、自分という大きな山が崩れ落ちることにも重なる気がするのです。
自分というものを中心に築き上げてきた世界が崩れたのです。
それはまさに「大死」なのです。
「大死底の人却って活する」ですから、大死したところから、もう一度ほんとうに生きることができたと豪語したと受けとめてみたらどうかと想像したのでした。
そうすると、さらに「ナスとヒサゴの別さえ分からぬ」という言葉まで、分別を超えた世界を暗示するものとして味わってみたくもなります。
もっともこれは想像でしかありません。
ご本人が、この語の真意について語ってはいない以上憶測でしかないのです。
ただ華山の大崩壊を自己の大崩壊に重ねて受け止めてみるのも悪くはないと思った次第です。
横田南嶺