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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.09.04
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臨済禅を学ぶ集い

今から十年前平成二十八年に、臨済禅師の千百五十年の遠諱がありました。

その遠諱の前の年から、まず我々が『臨済録』について勉強しようと、湯島の麟祥院で和尚様方の勉強会を始めたのでした。

それが今も続いています。

それからその頃に、平林寺の老師や大乗寺の老師と共に、数名の老師方で自主的な勉強会を始めました。

この会も毎年続けてきています。

今は平林寺の松竹寛山老師と、大乗寺の河野徹山老師と、円福寺の政道徳門老師と、麟祥院の矢野宗欽老師、それに私とであります。

毎年老師方が持ち回りで当番を務めて開催してきました。

昨年は宇和島で行いました。

白隠フォーラムで大乗寺の老師がご講演なさるのを私たちも拝聴したのでした。

今年は、円福寺様で開催しました。

今回は、平林寺、大乗寺、円福寺の各老師と私とが講師を務めて行いました。

第一講は、大乗寺の河野徹山老師による九十分の講義です。

「臨済禅師の生涯について」と題して老師の綿密な考証を元にした講演であります。

それから二講目は政道老師による「歩行禅の実習」です。

「歩行禅から四弘誓願へ」と題しての実践講座でありました。

お昼ご飯を挟んで、午後からは松竹老師による「公案禅を 学ぶためのウォーミングエクササイズ」です。

そして最後が私の「イス坐禅」でした。

そのあとは一時間ほど、修行や布教活動に生かすための質疑応答と意見共有を行ったのでした。

参加された和尚様方は六十数名となり、とても充実した会でありました。

河野老師の臨済禅師の生涯についての講演はとても深い内容でした。

臨済禅師について、いつ生まれたのか定かではありません。

お亡くなりになったのは、西暦八六六年か八六七年なのであります。

生まれた年が分かりませんので、何歳の生涯であったか分かっていません。

生まれた所は曹州南華であるとされています。

出家したのがいつ頃か、どこの寺で受戒されたのかも分かっていません。

修行の経歴も分かっていないのです。

『臨済録』には断片的な記述が残っているだけです。

それゆえに今日まで臨済禅師の年譜が作られるということはほぼありませんでした。

そこを河野老師が綿密な考証をもとに年譜を作成してくださっていました。

これはとても有り難いことであります。

まず生まれた年が分かっていないのですが、河野老師は、『臨済録』にある、

「師が黄檗の手紙を持って、潙山に行った時、ちょうど仰山が知客であったが、その手紙を受け取ると言った、「これは黄檗和尚のものですが、どれが御使者のものですか。」 そこで師は仰山に平手打ちを食らわせようとした。仰山はその手を押さえて、「そこまでお分かりなら文句はない」と言って、潙山の室に案内した。」という問答を取り上げられました。

臨済禅師は黄檗禅師のもとで修行されていた頃に、潙山禅師を訪ねて、潙山禅師のもとにいた仰山禅師と問答されたところです。

そこのところに仰山禅師は、臨済禅師に対して、「老兄、是般の事を知らば、便ち休せよ。」と述べています。

河野老師は、仰山禅師が臨済禅師を「老兄」と呼んでいるところに注目されました。

「老兄」とは同門、身内の年上の人を親しく丁寧に呼ぶ呼称です。

そこで老師は、臨済が仰山と同年配かつやや年上であると推察されました。

仰山禅師は、八〇七年に生まれて八八七年にお亡くなりになっています。

老師は、仮に臨済の生誕を仰山より六歳年上と仮定されました。

つまり唐の貞元十七年、西暦八〇一年に想定して、臨済禅師の年譜を作成してくださったのでした。

これは八〇一年にすると、あと年齢が数えやすいからだと仰っていました。

それでも実際、誤差はこれより五年以内程度であろうというのです。

そうしてみれば二十歳頃、八二〇年に出家受戒します。

その後比丘として経典や律蔵を勉強されます。

二四歳の頃に黄檗禅師のもとにゆきます。

二十七歳で大愚禅師に参じます。

それからは『祖堂集』の記述に従って十数年ほど大愚禅師のもとにいたとして、四十歳頃に黄檗禅師のもとに戻って印可を受けます。

そして再び行脚の旅に出ます。

四十三歳から四十六歳頃に会昌の破仏があり、難を避けて河北に向かったと想定されます。

五十四歳で河北に臨済院を開かれました。

臨済禅師が五十八歳の頃、趙州和尚が近くの観音院に住します。

臨済禅師との問答が残っています。

趙州和尚は既に八十歳でした。

徳山禅師が徳山に住したのが、臨済禅師五八歳の頃です、

徳山禅師は既に八十歳の晩年でありました。

臨濟の最晩年について、塔記には、「(河府に)住すること未だ幾ばくならざるに、即ち大名府の興化寺に来りて東堂に居す。」とのみ書かれていて詳細が分かりません。

そこを老師はこのたび、公乗億の撰する興化存奨の塔碑「魏州故禪大徳奨公塔碑」(『文苑英華』巻八六六)という資料に基づいて明らかにされました。

この塔碑によると、興化禅師は臨済禅師のもとでその堂奥をきわめたのち、臨済禅師のもとを辞して全国に行脚に出ました。

あるとき風の噂に、臨済禅師が河中府蒲州の節度使蒋伸(しょうしん)の招聘に応じ旅に出たと聞きます。

そこで少しでも側でお仕えしようと心に決め、錫を飛ばして中条山(山西省河東県)で一行に追いつき、随侍しました。

白馬津(河南省滑県)で黄河を渡ろうとしていると、当地の魏博鎮(ぎはくちん)節度使何弘敬(かこうけい)が使者を遣わして臨済禅師を招きました

魏州に着くと観音寺の江西禅院に止宿することとなりました。

江西院には、高官から俗人に至るまで法を求める者で引きも切らぬありさまでありました。

臨済禅師は年をまたがずして、ここに遷化したというのです。

興化禅師はこの仏道に服勤し、深い尊敬の念をささげて、懇ろに埋葬の儀、荼毘の礼を尽くしたという話でありました。

臨済禅師の最期の様子がよく分かりました。

また臨済禅師の生涯を通年で明らかにされたのは大きな功績だと感じました。

また当時の中国の地図も用いて生涯の行動範囲を示してくださいました。

改めて広範なる地域を行脚していたことが分かります。

危険な道もあったろうと察します。

そんな道を行脚しながら修行をされたのだと思いました。

その行脚によって培われた身体感覚は、今の私たちとは比べものにならないものだったと思いました。

山川を歩くことそのものも修行だったと思うのです。

かくして、その講座のあと、政道老師の歩行禅へとつながったのでした。

 
横田南嶺

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