八月終わる
八月というと、お盆の月でもあり、日本の敗戦の日でもありますので、いろいろ考えることが多いものです。
振り返ってみると、一日には上京してジブリの鈴木俊夫さんと対談させていただきました。
この対談では、いろいろと学び、考えることがありました。
とりわけ、虚構と現実について考えが深まりました。
それから二日は静岡市の宝泰寺様で、講演をさせていただきました。
四日は、比叡山に登って宗教サミットに参加しました。
堀澤祖門様にもお目にかかり、改めて平和について考えました。
特にサミットに寄せられた、世界仏教徒連盟の会長であるパロップ・タイアリー氏のメッセージからは、仏教徒として平和運動について深く学ぶことができました。
改めてその一節を記します。
「仏教は、生きとし生けるものの心はすべて、深く繋がり合い、互いに依存し合っていると説いております。
人間は、他の生き物とは異なり、物事を判断し、自らの意志で選択する能力を有しています。
すなわち、平和をもたらすのか、争いを生み出すのかは、私たちの決断次第なのです。
穏やかな心は、穏やかな言葉を生み、穏やかな行動を導きます。
私たちが内なる平和を育むとき、それは思考を通して外へと広がり、日々の行いとなって立ち現れます。
さらには、怒りや憎悪、不寛容といった負の感情を捨て去り、思いやり、慈悲、許し、寛容、共存のような清らかな精神を育むことによってのみ、真の平和と調和がもたらされ得ると仏教では教えております。
心を鍛え、倫理に基づく生活を通じて心の内に平和を築くことが、この広い世界に恒久平和をもたらす礎となるのです。」
という言葉です。
それから八日には新宿の月桂寺様でイス坐禅の会を催しました。
九日が日曜説教で午後から布薩でした。
十日と十一日は、故郷である和歌山県新宮市に帰って、父の初盆の読経をすることができました。
十三日には円覚寺の総代さんのお宅に棚経に出かけました。
そのあとのお盆の間はお参りの方とお目にかかっていました。
十五日の終戦記念日には、毎年出かけることはせずに、平和の祈りをささげています。
十六日は、午前中東慶寺様で布薩とイス坐禅の会を行い、午後からは円覚寺で寝る禅を行いました。
十七日は春秋社の企画で、仏光国師の本を作るために仏光国師について講義をしました。
十八日から円覚寺の大書院で禅とジブリ円覚寺写真展が開催されるに当たって、ライブ配信を行っていました。
二十日は鎌倉宮の例祭に参列していました。
鎌倉宮の歴史について学ぶことができました。
鎌倉に住んでいてもまだまだ知らないことが多く、また歴史についてもまだまだ学ばなければと思ったものです。
二十一日は京都に行って禅文化研究所の企画で佐々木閑先生と対談させていただきました。
佐々木先生とは何度も対談していますので、今回もかなり踏み込んだ内容で、仏教における禅の特異性、禅の良い点と問題点、特に禅宗の暴力性、戦争の問題についても語り合いました。
それからAIについて学びました。
二十四日は円覚寺の幼稚園の地蔵まつりでした。
二十五日は朝比奈宗源老師のご命日であります。
修行道場においてご命日の法要をお勤めしていました。
振り返ってみると、いろいろと学ばせてもらったものです。
朝比奈老師のご命日になると、老師の本を紐解いて教えを改めて学びます。
朝比奈老師の『獅子吼』という本に、老師の教えについて簡単に説かれているところがありますので、紹介します。
次のように説かれています。
「私は、小さい時両親に死に別れ、大変淋しく悲しく、八歳の春お釈迦様は死んでも死なないということをお寺の和尚さんからきき、それが分かれば両親に会えると思い、十一歳から出家して、尊い師匠さんをもったお蔭で、十六歳から廿八歳まで一所懸命修行に精を出し、ひと通り、修行を了え、それから東京へ出て学問をし、三十一で寺をもち、郷里へ帰って両親の法事をして、親戚の人たちに禅の話をしましたら、八十になる従兄の人が、禅の修行がそんなにむずかしいものでは、私のような年寄りにはとてもできない、それができないではこの世で本当に安心はできないと思うと悲しいと、いいました。
これを聞いて、私も自分だけは安心できても、こんな親しい人たちにその喜びをわけられないのは、いかにも淋しいと、それから私は他宗の高僧方にも教えを頂き、禅も念を入れて指導すれば、皆さんに安心させてあげられると信じ、今日ここで申しあげている佛心の信心を説き出したのであります。
お釈迦さまや、達磨さまの教えも、みな覚りの道理をよく説いて聞かせた上で、それをはっきりさせるための坐禅修行となっていることを知ってそれを実行したのであります。
皆さん、いつもいう、みなさんがそこで私の話をきいておいでになるもの、花を見れば花、若葉を見れば若葉と、見わけたり、喜んだり悲しんだりしている心、それは、一般に思っているようにつまらないものではなく、その心の本体は、死に生きもなく、生き通しのもの、しかも、私共がつい迷っていろいろの罪や過ちを犯しましても、決して汚れも穢れもしない尊いもの、私共の体は二メートルにたらない小さなものですが、その心は天地いっぱい、宇宙に満ち満ちているものなのです。
ですから、人間は佛心の中に生まれ、佛心の中に住み、佛心の中で息を引きとる。
佛心とは一秒時もはなれない尊いものなのです。
人間とはそんなすばらしいもの、お釈迦さまも、達磨さまも、この佛心をさとって安心され、今までそれがわからないために、死んだらどうなるか、どんな恐ろしい世界へ行かねばならないかと、苦しんだことは夢の中の出来事のようなもの、人間とはなんとすばらしいもの、尊いものかとお喜びになった、それを教えられたのが、佛教であり、禅であります。
そこで、まずこの佛心の尊いこと、私共は佛心そのものであることを信じることが第一、それを信じて坐禅もする。」
と説かれています。
私も朝比奈老師の本を紐解くと、初めて老師の本を学んだ中学生の頃を思い出します。
精進、精進、これからも精進、学び続けていくのであります。
横田南嶺