臨済録いろいろ
これは今年から始めたもので、第二回目であります。
だいたいこういう会は一回目が多くて、二回目から減ってしまうものですが、これはどういうわけか、二回目も大勢の方がお集まりくださっていました。
不思議なことだと思ったものです。
臨済禅師の教えを学ぶには、その示衆を読むのが一番だと思い、示衆の部分から読み始めました。
第一回目は、示衆の「師乃ち云く、「今時、仏法を学する者は、且く真正の見解を求めんことを要す。若し真正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり。」という、このところを読んで終わりました。
次の「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自ずから至る」というところを解説するところで終わったのでした。
今回は、「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自ずから至る」というところから読み始めました。
読み始めましたが、この「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自ずから至る」で終わってしまいました。
午前九時からちょうど一時間、講義を終えると修行道場の十時の鐘が鳴ったのでした。
旧版の岩波文庫では朝比奈宗源老師が「偉そうにする気などなくとも、自然にすべてが尊くなる」と訳されています。
今の岩波文庫の『臨済録』では入矢義高先生が「至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやってくる」と訳されているところです。
殊勝を解脱ととるならば、解脱を求めようとしなくても自ずから解脱は得られているという意味になります。
解脱して仏になろうと求めるのではなく、既に解脱して仏であることに気がつくという臨済禅師の教えが現れています。
この本来仏であるという教えがどのようにできてきたのかを説いていると、仏教の思想史を解説することになります。
それでもともと仏は真理を悟った人であり、お釈迦様その人を言ったのであること、そこからお釈迦様を尊崇するあまり、我々は仏にはなり得ないという教えになったことなどから話をしていました。
そうして我等は仏にはなれないものであり、阿羅漢となるということになりました。
大乗仏教になると、仏になれると説かれるようになっていったのです。
そして更に仏になれるということは、仏になることができる可能性を本来持っているのだと説くようになりました。
仏になれる可能性という意味で「仏性」が説かれるのです。
あらゆる命ある者は皆仏性を具えていると説くのです。
更に我々は本来仏であると説かれました。
そしてそれから更に仏心、仏性は世界にいっぱい充満していると説くようになるのです。
仏は、もはや到達すべき目標ではなくなります。
私たちは仏心の中にいるというのです。
解脱を求めようとしなくても解脱は自ずと得られているのだという教えになるのです。
私が初めて書店で本を注文したのは、中学生の頃で、それは山本玄峰老師の『無門関提唱』でした。
中学の頃から公案の修行を始めて、この本を教科書のようにして読み返したものでした。
大法輪閣から出ている本です。
もうひとつ大法輪閣から『臨済録提唱』という本が出ていました。
足利紫山老師の著書であります。
これも手に入れて繰り返し繰り返し読んだものです。
しかし、当時はいくら読んでも何を言っているのか、さっぱり分からなかったものでした。
それでもその言葉を一つでも二つでも頭に入れておけば、きっと将来役に立つかもしれないと思って読んだものでした。
やはり『臨済録』という書物は修行してこないと分からないものだと思っていました。
それが有り難いことに実際に修行を重ねていって『無門関』の公案や『碧巌録』の公案などを調べていって『臨済録』にたどりつくと、今まで何を言っているのかさっぱり分からなかった書物でしたが、あるときに暗闇にパッと灯りがついたかのようにはっきりと分かるようになったのでした。
そうか、このことを言わんとしているのかと納得できたのでした。
そのことが分かると、『臨済録』のどこを読んでも問題なく受けとめることができるようになったのです。
久しぶりに足利紫山老師の『臨済録提唱』を紐解いてみました。
「殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自から至る
どうもここの様子がなんとも云はれんー。奇特の様子ぢや。
神通不思議の様子ぢや。
帰依渇仰をする様子ぢや。
徳あれば自然に香ばしといふ様子。
まあ腹でも立つか、氣に入らんことでもあったならば、先づ一つ佛様のお姿をよく拝むがいい。
我見もなく、人見もなく、衆生見もなく、寿者見もなく、實に萬徳園満の釋迦如來のお姿ぢや。
そこに欲しい、惜しい、可愛い、憎いの沙汰があるか。
佛の御姿を拝んでをれば、自然にずうつと頭が下るといふ譯ぢや。
こちらから殊勝をてらはんでも、殊勝を求めざれども、殊勝自から至る。
こちらに十分内に徳があれば、自然に皆歸依渇仰するは當り前ぢや。
殊勝を求めんと要せざれども、殊勝自から至る。」
と説かれています。
老師の口調をそのままに文字にされていると思われます。
これまた味わいがあります。
紫山老師は「佛の御姿を拝んでをれば、自然にずうつと頭が下る」と説かれていますが、これは言葉を換えると仏心を具えていることを表しています。
釈宗活老師は、「神通不思議の妙用や、歸依潟仰等の、殊絶勝絶を、強ひて求むる必要はない。真正の見解を得た結果は、自然に一挙手一投足の上、言行云為の上に、殊勝の働きが、求めずして顕現する」と説かれています。
老師方それぞれの説き方があります。
言わんとするところは、本来具わっている仏心の尊さは、あえて求めなくても自ずから現れてくるということであります。
横田南嶺