善とは?善く生きるとは?
ご自身の研究の参考にされるそうです。
熱心に学ばれている様子が伝わってきました。
はじめに聞かれたのは、善悪の基準でした。
善とは何か?善く生きるとはどういうことなのかという質問です。
これは難しい質問であります。
善とは何か、どう答えたらよいか、私も考えました。
思いついたままにお話したのですが、善とは何か、善く生きるとはどういうことかを考えるときに、二つの方法があると申し上げました。
これはあくまでも私の個人的な見解だとお断りした上で伝えました。
長年仏教を学んできて、二つの道筋があると感じているのです。
それは帰納と演繹であります。
帰納というのは、帰納法という言葉もありますように、「個々の具体的事実から一般的な命題ないし法則を導き出すこと。特殊から普遍を導き出すこと」と『広辞苑』に解説されている方法です。
それから演繹は、「一定の前提から論理規則に基づいて必然的に結論を導き出すこと。通常は普遍的命題(公理)から個別的命題(定理)を導く形をとる」ことだと『広辞苑』には説かれています。
演繹的な考えから申しますと、普遍的な命題として、仏教特に禅では仏心を説きます。
人は皆生まれながらに仏心を具えているのです。
仏心がどんなものかというと、朝比奈宗源老師の言葉を借りれば、「仏心はいつも浄らかな、いつも静かな、いつも安らかな、いつも明るいもので、一切の苦しみや、悲しみや、不安のない世界」ということになります。
松居桃楼さんの言葉を借りれば、「いつでもどこでもなにものにもほほえむことの出来る心」であります。
何々が無いという表現をすれば、自他の境の無い世界であり、生き死にの沙汰が無い世界であり、分別の無い世界であり、執着や思い込み、とらわれ、こだわりの無い世界であります。
いつも布薩の時に読んでいる言葉には、「佛性の理に順じて心を起こすを善といい、佛性の理に背くを悪と名づく。自性清浄なるに身口意相応すれば十善おのずから圓妙たり」というのがあります。
禅では坐禅して仏心に目覚める修行を致します。
仏心に目覚めることが出来れば、その仏心のままで暮らすことが善なのです。
盤珪禅師は、仏心のままで暮らせば戒をたもとうということすらいらないと仰せになっています。
これが演繹的な方法です。
常に仏心でいられるようにと、仏心を基準にして日常の個別的なことまで自ずと定まってくるのです。
いつも坐禅して仏心のままでいられるような行いが善なのです。
仏心を見失うような行いが悪となります。
この仏心に目覚めるためには様々な帰納的な方法もあります。
それが日常の暮らしの戒であり、禅の道場の規律であり、坐禅という具体的な方法でもあります。
戒を守るということの一番のおおもとは命を殺めないことです。
人の物を盗んだり壊さないことです。
これらの行為をしていては、仏心から遠ざかります。
遠ざかるということはないので、強いて言えば仏心を見失うのです。
日常の暮らしでも物を大事にする、粗末にしない、丁寧に扱う、水も大事に使う、感謝して暮らすということは、仏心の暮らしにつながるのです。
逆に荒々しい行いをしていては仏心を見失います。
坐禅もそうです。
姿勢を調えて、呼吸を調えていくと、自ずと仏心の暮らしになっていくのです。
毎月都内で行っているイス坐禅の会でもそのことを感じます。
二時間ほど丁寧に体を調えて坐ると、そのあと皆さんの表情がほころんでいます。
歩くときの歩き方が静かになっています。
お互いに声を掛け合ったりしています。
エレベーターに乗るにも自ずと譲り合い、声を掛け合っています。
これを帰納的に行うなら、終わったら静かに歩きましょう、片付けをきちんとしましょう、挨拶をしましょうとひとつひとつ声をかけていくことになります。
演繹的ならば、心が調ったならば、自ずと静かな行動になり、穏やかな行いになり、積極的に譲り合うようになるのです。
禅の修行では、この帰納的な方法と演繹的な方法の二つが行われているのです。
日常の動作のひとつひとつを丁寧に行う、足音を立てない、物を粗末にしないというように帰納的に日常の具体的な行動を調えてゆきます。
それと同時に坐禅して直に仏心に目覚める修行も行うのです。
仏心に目覚めたならば、自ずと日常の暮らしも調っていくのです。
この両方の方法がお互いに補完的に作用します。
日常のひとつひとつを丁寧にする帰納的な方法が仏心に目覚めるのに大いにはたらきますし、仏心に目覚めれば演繹的に日常も調うのです。
そうしていつでもどこでもなにものにもほほえむことの出来るのが善く生きることだと思いますと、その方に伝えたのでした。
参考になればいいのですが。
横田南嶺