花を見て微笑む
公開講座で、禅とこころという題の授業です。
毎年いろんなテーマを決めてお話していますが、今年は『無門関』を取り上げました。
『無門関』は今まで何度も講義をしてきていますが、第一則から読むではなく、第一回は、お釈迦様の公案を取り上げることにしました。
第二回は、達磨大師の公案を取り上げる予定です。
そして第三回は六祖慧能禅師というように、禅の歴史を逐いながら、『無門関』を学んでみようと思っているのです。
『無門関』にあるお釈迦様の公案として、第六則の「世尊拈花」と第三十二則の「外道問仏」の公案を取り上げました。
禅というのは伝統の系譜を大切にしています。
実際に禅というのは中国において独自に発展した教えなのですが、それでもお釈迦様から教えを受け継いでいると説いています。
禅の興りといってもいいのが、「世尊拈花」の公案であります。
「世尊昔霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。」
という文章から始まります。
世尊とはお釈迦様のことです。
「福徳を具えた者」「尊く幸ある者」の意です。
霊山は霊鷲山であります。
お釈迦様が『法華経』を説いた場所として知られています。
お釈迦様が霊鷲山で説法なされようとしましたが、ただ一輪の花を拈じて示しただけでした。
集まったお弟子たちにはなんのことか分からなかったのですが、迦葉尊者のみがにっこりと微笑まれたという話なのです。
この話のもとがどこにあるのか、『大梵天王問仏決疑経』にあるのだと言われています。
しかし、その『大梵天王問仏決疑経』の成立以前から禅門では流布していたとも言われています。
『大梵天王問仏決疑経』にはもう少し詳しく書かれていまして、はじめに梵天様がお釈迦様に波羅花を献じてお釈迦様にお説法をお願いしたのでした。
お釈迦様はその花をとって、皆に示しました。
皆はなんのことか分からなかったのですが、迦葉尊者のみが破顔微笑されたのです。
破顔というのは顔をほころばせることをいいます。
経典には迦葉尊者のことを「金色の頭陀」と書かれています。
この「金色の頭陀」というのが迦葉尊者のことを表しています。
迦葉尊者が出家する前に鍛金師であったとされていてます、
毘婆尸仏(びばしぶつ)の金色の舎利塔が破壊し、一貧女とともにこれを修理した功徳によって、九十一劫の間身体が金色を帯び、勝楽を得たという故事にもとづいているそうです。
頭陀というのは煩悩を払い除く修行を言います。
迦葉尊者はその頭陀行においては第一であると言われていたのです。
迦葉尊者だけが微笑まれて、お釈迦様は次のように仰せになりました。
「世尊云く、我に正法眼蔵、涅槃妙心、實相無相、微妙の法門あり。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付囑す」というのです。
わたしの教えは迦葉尊者に伝わったということです。
これが禅宗の興りとされています。
正法眼蔵というと、今日では道元禪師の書物として知られていますが、正法は文字通り正しい法であり、眼蔵の眼は一切のものをうつし、蔵は一切のものを包むの意味であり、眼蔵で、あらゆるものをうつし、あらゆるものを包む無上の正法の功徳を表しています。
正法眼蔵とは仏法の真髄を言います。
「涅槃妙心、實相無相、微妙の法門」と続きますが、涅槃とは煩悩の吹き消された状態です。
人間の煩悩や穢れがすべて消滅している境地です。
妙心は不可思議な心です。心のはたらきのおしはかることのできないことを妙と称しています。
不可思議なるこのいのちの働きを妙心と名付けています。
仏心といっても同じです。
この心が私たちに具わっていて、目を通してものを見、耳を通して音を聞き分け、鼻をとおして臭いをかぎ分け、舌で味わっています。
これも皆妙心のはたらき、仏心のはたらきです。
実相はすべてのものの真実のありのままのすがた、真実の本性、真理です。
無相は形やすがたのないことです。
特別の相(形相)をもたないことであり、もともと物事には固定的、実体的なすがたというものはないことを表します。
実相は無相であり、無相が実相である、などといわれます。
真実の姿は姿も形もありません。
姿形のないいのちを我々は授かって生きています。
実相は無相です。
姿形のないいのちが、千変万化して咲く花となり、啼く鳥となり、この私となり、あなたとなりみなそれぞれの姿をして現れています。
その様子が実に「微妙」です。
微妙と書いて「みみょう」と読みます。
微妙とは「何ともいえないほどすぐれていること。深遠ですぐれたさま。仏の教えや智慧などの形容」であると『広辞苑』には解説されています。
そんなすばらしい「法門」、教えが、今すべて摩訶迦葉に伝わったということです
一輪の花に、大宇宙のいのちがすべて現れています。
正法眼蔵涅槃妙心、実相無相、微妙の法門がそっくり具わっています。
この大いなるいのちに目覚めて、この大いなるいのちが今自分に具わって、生きているのだとわかれば自ずとにっこり微笑みがわいてきます。
それが迦葉尊者の破顏微笑と言えます。
その心が「不立文字教外別伝」であって、文字によらず経典に書かれたこととは別に摩訶迦葉に伝わったのです。
仏教の真髄は、どのような教えの中にも伝持されえず、経典の文句によらずに、心から心へと直接に体験によってのみ伝えられうるという意を表しています。
付嘱は「ふしょく」とも読み、布教の使命を付与することです。
坂村真民先生の詩に「ただこれだけ」という題の詩があります。
「一輪の花の中に
神宿り給う
教典など
知らなくていいです
これだけでいいです」
という短い詩です。
一輪の花に三千の御仏が宿りたまう、八万四千の法門は、この一輪の花にありとも言えます。
言葉を費やして説明しようとすればするほど遠ざかってしまうので、やはり、ただにっこりと微笑むしかないところであります。
禅のはじまりに、この微笑、微笑むということがあるのは有り難いことです。
横田南嶺